神について思う

悔  悛


先日、小林一三の生涯をドラマ化したNHKの番組を見ました。

ドラマの中で小林一三の恩人である北浜銀行の岩崎が「自分はこの国を一等国にし、その影に岩崎があると言わせるのが夢だ。」と折りにつけ言っていたので一三が「あなたが言う一等国ってどんな国ですか」と質問したところ、岩崎は、「この国に生まれてきて良かったと言える国さ。ところで君はどんな国を一等国だと思う。」と聞き返された一三は、「努力したことが報われる国ですかね。」と応える場面がありました。

最近、NHKスペシャルで「老後破産」というドキュメンタリー番組があり、その本を読みました。

戦後六十年以上を経て、経済発展をし、日本は、大国と言われるようになりましたが、でも、本当に一等国になれたんでしょうかね。
老人は希望を持ってはいけないんですかね。

息子が子供の頃、出会う子出会う子皆に友達になろうって声をかけていたのをよく思い出します。公園を駆け回っていた事、小学校の入学式の時の桜吹雪、京都を裸足で歩き回った事。小さな手で、僕の手を握りしめてきた時の感触。
まるで夢のようです。
生まれてくるまでは、いないのが当たり前だったのに、生まれるといるのが当たり前。
不思議なものですね。
遠く離れてみるとみるとその寂寥とした空白は誰にも埋められない。
町を歩いていると時々、パパって声をかけられるような気がしてハッとします。
家内は、「息子を海外で活躍できるようにと育ててきたけれど、いざ留学させたら自分の心の準備ができていなかった」と涙ぐみます。
親というのは、愚かなもので、日本にいながら寒い日は、カナダいる息子は凍えてはいないか。雨の日は、濡れてはいないか、自分たちがごちそうを食べても、息子は、ひもじい思いをしていないかと心配する。
私ら夫婦は、自分たちの断ち切れぬ思いを断ち切り息子の夢を実現したいと判断し留学を許したのです。
我が身を切られるくらい辛い思いです。

なぜ、そんな思いまでして留学を許したのか。

母が重い病気になっていろいろと考えさせられました。
いつか自分生き様と対峙しなければならなく時が来るということを思い知らされました。自分は、今まで母が達者でいる事でずいぶん救われてきました。
認知症や介護に追い回されている知人の話を聞くにつけ、母が達者であることに感謝していました。でも、それは母に甘えていたのかもしれません。
母が達者でいてくれるからこそ、何の気兼ねもなく仕事がしてこれた。これは紛れもない事実です。
私に限らず、現代人は、老いという人生の根源にある問題と対峙することを避けてきたように自分は思うのです。
母が重い病気にかかった時、その事実を突きつけられた気がします。まだまだと甘えてきたのが、いよいよ現実となって目前に現れた。生病老死は逃げられない現実なのです。
それなのに現代人は、介護だの制度だの設備の問題にすり替えることで、現実から目を背けてきた。
本当の問題、いかに生きるかだと思うのです。親と子の関係、夫婦のあり方、兄弟姉妹の関係、友人や知人、仕事との関係、そういった諸々の人間関係の上にお金の問題や恩讐と言った生々しくどろどろとした部分、一切合切を含んだことなのです。
それが少子高齢化だの介護だの制度だの設備の問題にすり替わった瞬間、物事の本質が失われてしまう。金なんか、制度なんか、設備なんかなくても生病老死と人は向き合ってきたのです。
だからこそ、お金の問題だの親子の関係だを疎かにできないし、疎かにしてきたらその付けを払わなければならなくなる。
結局そうなるとこれまで生きてきた自分の人生を見つめ直さなければならなくなる。
自分の行いや思い、先送りしてきた事々を決着をつけずに黄泉に渡れば、人生は虚しくなる。

どんな王侯貴族でも、聖人賢者でも、避けて通ることのできない道なのである。
釈迦や、キリスト、ムハンマド、孔子も生病老死、自分だけでなく。親の死、子の死、友人、知人の死から逃れることはできない。

いつか、自分の人生に向き合い、そして自分なりの答えを出さなければならない。
ただ、老いた母にどう向き合うかではなく、自分の人生とどう向き合うかの問題であって、お金や制度の問題でもないのである。
そのことを忘れてしまったからこそ経済の問題は、本質を見失ったのだと思うのです。

母は、静岡に帰りたいと言います。

僕にとって通うのはしんどいけれど東京にいた方が友達もいて、娘達もいるからいいんじゃあないと言うのですけれど、静岡がいいというのです。

なぜ、静岡なのかなその時、不思議に思いました。

去年、母は、舞台に立ち精一杯歌を歌いました。お世辞にもうまい、少なくともお金をとって聴かせられる歌ではないと、私には思えるのですけれど。
ただ舞台に立っている母を見ていると無垢の女学生が歌っているみたいで、コンサートに来た母の友人知人もなんだか女学生時代の友達みたいに見えたんです。今まで、自分が見たことのない母なんです。
母親とか、妻とか、そんなものをかなぐり捨てて、全身全霊歌っている。僕には金切り声にしか聞こえなくても歌なんですよね。
何というか、うまい下手ではなくて。
そのうち、母を実の母親のように慕っている知人がボロボロと涙を流すんですね。それでその方は、今回のコンサートを絶対行くと行っていたんです。その方は、母の歌を聴く少し前に旦那をなくしていて・・・。
母の歌を聴くと現づけられる。生きる勇気が与えられるというのです。
それで自然と涙が出てしまうと・・・。

そういう関係を見ていると、嗚呼、女って凄いと思うんです。

なんだかドラマを見ていると常日頃は、妬みだの、嫉妬だのと、恨み辛み・・・。
結局、男の私には、女の気持ちも友情も分かりませんけれど・・・。

俳句や歌は、母にとって希望なんですね。
だとしたら、母にとって静岡は一等国なんですね。

母は来年きっと静岡の舞台に立てると僕は信じています。
ピアフが絶望の淵から「愛の賛歌」によって復活したように・・・。

息子の夢は自分の夢でもあります。
狭い世間の柵(しがらみ)に囚われず。
若い時は、自分が信じた道でやりたい事をやり。
世界に羽ばたいていて欲しい。
悔いない人生を送って欲しい。
それが私の夢です。

失敗から学んだ者だけが成長する。
悔い改めない限り、人には未来はない。

何が大切なのだろうか。
戦争、内乱、環境破壊、貧困、退廃、堕落人間は失敗から何を学んだのだろうか。
事の成否善悪是非に心境老若の別はない。
進化論的発想に囚われて新しい事は善くて、古いものは悪いと決めつけてはいないだろうか。
大切なのは、人間一人ひとりの悔悛。
何が正しくて何が間違っているかは、自らの心に問え。

私が彼方にとって一等国とはどんな国かと聞かれたら、「嗚呼生きてて善かった、この国に生まれて善かった。」と国民一人ひとりが臨終の際に言える国かな。



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