神について思う
今、神を受け入れなければ
今更何を言うのか。
人は神に背き続けてきたのである。
神の名の下に神に背き。
人の名の下に神に背く。
今こそ神を受け入れなければ人類は未来永劫救われない。
言っておくが私が救うのではない。神が救われるのである。
科学が万能なのではない。神が万能なのだ。
また、人間は、神の名の下に神を欺こうとしている。
しかし、神は全てをお見通しである。
戦争の惨禍も、自然を破壊した報いも結局は人間が犯した罪業なのである。
神を罵り、神を侮ったところでなんになる。
いい加減、目を覚まし、神の真実を受け入れない限り、人間に救いはない。
どれほど多くの聖人を生け贄にし。
どれほど多くの賢者を迫害し、惨殺するのか。
今神を受け入れなければ人類に未来はない。
母が重い病気になっていろいろと考えさせられました。
いつか自分生き様と対峙しなければならなく時が来るということを思い知らされました。自分は、今まで母が達者でいる事でずいぶん救われてきました。
認知症や介護に追い回されている知人の話を聞くにつけ、母が達者であることに感謝していました。でも、それは母に甘えていたのかもしれません。
母が達者でいてくれるからこそ、何の気兼ねもなく仕事がしてこれた。これは紛れもない事実です。
私に限らず、現代人は、老いという人生の根源にある問題と対峙することを避けてきたように自分は思うのです。
母が重い病気にかかった時、その事実を突きつけられた気がします。まだまだと甘えてきたのが、いよいよ現実となって目前に現れた。生病老死は逃げられない現実なのです。
それなのに現代人は、介護だの制度だの設備の問題にすり替えることで、現実から目を背けてきた。
本当の問題、いかに生きるかだと思うのです。親と子の関係、夫婦のあり方、兄弟姉妹の関係、友人や知人、仕事との関係、そういった諸々の人間関係の上にお金の問題や恩讐と言った生々しくどろどろとした部分、一切合切を含んだことなのです。
それが少子高齢化だの介護だの制度だの設備の問題にすり替わった瞬間、物事の本質が失われてしまう。金なんか、制度なんか、設備なんかなくても生病老死と人は向き合ってきたのです。
だからこそ、お金の問題だの親子の関係だを疎かにできないし、疎かにしてきたらその付けを払わなければならなくなる。
結局そうなるとこれまで生きてきた自分の人生を見つめ直さなければならなくなる。
自分の行いや思い、先送りしてきた事々を決着をつけずに黄泉に渡れば、人生は虚しくなる。
どんな王侯貴族でも、聖人賢者でも、避けて通ることのできない道なのである。
釈迦や、キリスト、ムハンマド、孔子も生病老死、自分だけでなく。親の死、子の死、友人、知人の死から逃れることはできない。
人と人との関係、縁は、その関係を紡ぎ出す要素一つひとつが、欠けても増えても、生活そのものを根本から変えてしまう。
若く健やかな時は何でもないことが、年をとると重く負担になる事もある。
若く溌剌していた頃の記憶が鮮やかに蘇ることもあるけれど、現実は虚しく寄る年波には勝てない。
昔ではなく、今が問題なのだ。
年老いた時、鏡に映った自分の姿に驚いたところで何になるのか。
今の自分の姿が現実なのである。
それを直視した時、生きることの真実が明らかになる。
母は、遠い彼方を見つめて・・・。
母は、何を待っているのだろう。
母は、誰を待っているのだろう。
年老いた親の世話をすることは、自分の未来を直視することでもある。
だから・・・・。
人はいつか、自分の人生に向き合い、そして自分なりの答えを出さなければならなくなる。
ただ、老いた母にどう向き合うかではなく、自分の人生とどう向き合うかの問題であって、お金や制度の問題でもないのである。
そのことを忘れてしまったからこそ経済の問題は、本質を見失ったのだと思うのです。
そして、人は、人生の最後には、神と向かい合わなければならなくなる。
その時人は、一途に自分を見つめる事となる。
神の前で自分が純化されるのである。
失敗から学んだ者だけが成長する。
悔い改めない限り、人には未来はない。
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