神について思う

経済



人生いかに生きるべきかを欠いた経済学は、経済学とはいえない。
なぜならば、経済学は、生きるための活動だからである。

経済学というとお金の話とか、生産効率の話とか、財政や金融などの話だと思っているのが一般である。しかし、それは手段であり、指針に過ぎない。経済の本質はいかに生きるかである。

経済の芯に何があるかが問題なのである。
しかし、いくら外面を取り繕ったって内心の安寧は得られるはずがない。
経済で最も重視されるべきなのは生きる事なのである。
大切なのは、自分の世界の芯にあるもの。
それを現実世界としっかりつなぎ止めているのが神の存在である。

神様に感謝。

その点で言えば、今日の経済の一番の問題は、誰のために、何のために生きているのかという点をら曖昧としている事である。
人のために生きる。特に愛する人のために生きる。そのために働く事の喜びを伝え、教えられない事が現在の経済学の最大の欠陥である。
だから、現在の経済学、自分のために自分が生きるための学問としてしか成立しえないのである。しかし、自分の生を目的化しても死という現実の前にすべてが虚しくなる。

愛する人、それは家族を構成する。
親と子と伴侶、それぞれの役割・位置づけが経済の源となる。
愛する国は国家を形成する。世の為、人のためにこそ経済はある。
経世済民。利己主義は、自分すら救えない。
しかし、最も究極的な事は、愛する神である。
それは人生を構成するからであり、自分の存在を普遍的な事に昇華するからである。
古来、イスラム教もキリスト教も仏教も経済の根本にあって経済と切り離せない関係にある。

この世にある物すべて神からの借り物である事を自覚しなければならない。
この肉体ですら神からの借り物である。
死ぬ時は、すべて神にお返ししなければならない。

お金がその象徴である。
お金の本質は借金である。
お金をたくさん持つという事は、それだけ神様から借金をしているという事である。
お金持ちは、それだけ多くの事を社会に還元しなければならなくなる。
さもなくば莫大な借金を背負って神の前に立たされる事になる。
借金を社会に還元するというのは、お金を自分の為に使う事ではなく。
社会に対して借りたお金の効用の分だけ働いて社会に貢献する事を意味する。
自分の為にお金を費やしてしまうのは、それは単なる浪費である。
借りた金で遊んでしまえば借金だけが残る。
借りたお金を元手にして、新たな価値を生産し、元手と金利以上の価値は自分の為に使う事が許されるのである。
お金を借りてもそれを無駄遣いしたら、浪費したら、借金を背負ったまま神の前に立たされる事となる。



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