神について思う

指導者は人格者か


振り返ると本当によっくやってこれたなと思いますね。
地を這いつくばるようにして、何とか切り抜けてこれたというのが本音ですね。
めげたら、心が折れてしまい立ち直れなくなる。

自分の判断、決断が正しいなんて確信があったためしはない。
とにかく決断しなければならないから決断してきたとしか言いようがない。
過ち、間違いは、指導者にこそ多い。なにせ決断する機会が圧倒的に多いからである。
だから間違いも多い。しかも間違いを間違いとしておいそれとして認められない。指導者の間違いは組織の間違いとなるからである。

確証もないままに決断し、しかも間違いが許されない。それが指導的立場にある者の宿命ですね。

誰かにあなたの決断は正しい。間違いないと言ってほしいが、そんな人間期待できないし、指導者という立場が許さない。

だから、もういいと思ったら、お仕舞いですね。
もういいやと思ったら、引退する時だと言ってた経営者もいます。

指導者が人格者だなんて大概は後付けの論理である。
どちらかと言えば独善的で猜疑心が強く、身勝手で、わがままで、偏屈、頑固、うぬぼれが強い人間が多い。
成功と言っても偶然や運に左右されるところも多い。
温和しいとか、謙虚などという言葉と無縁だから成功したともいえる。

実際鼻持ちならない嫌味な奴が多い。

人格者だからといって成功するとは限らない。
むしろ強欲で顕示欲の強い人間の方が成功したりもする。
謙虚で控えめな奴はチャンスを逃しやすい。

指導者だって人の子、弱い人間。
緊張感に耐えられなくなり、酒や女、賭け事に救いを求めれば、たちまち、堕落し身を持ち崩す。
身を持ち崩したところで、誰も許してはくれない。弱いだけだと誹られるだけである。
だから、私は、逆境になった時は、酒や女を遠ざけてきた。

仮に人格者の指導者がいたしても、最初から人間ができていたとは思えない。
苦難や経験によって成長したのである。
最初から人格が形成されているわけではない。

人格者が指導者になるわけではない。指導的立場が人格を作り、磨くのである。

どんな指導者だって自分が下した決断が絶対に正しいという確信は持てないと思う。
だから、あなたが正しいとか、
自分の過ちが許されたいと思っている。

自分の間違いが許されなければ悔い改めることもできないし、認めることさえできない。

だから、指導者にとって信仰は不可欠ですね。
神を信じない指導者は、自らを神とする以外になくなる。

死という現実の前に立たされれば、どんな権力者だって純粋な存在しかない。
素の自分に立ち返る以外に救いはない。
だから、真の指導者こそ神を必要としているのである。

自分の力で、自分の意思で指導者になれたのではない。
天命を知ることである。
天命を知らなければ、なぜ何のためにその地位にあるのかもわからなくなる。

母は、検査で大腸癌も見つかりました。ステージはUからVだそうです。
まあ、手術をすれば、歳も歳ですし。
いずれにしても母は、八十を過ぎて舞から。
三歳の時に母を失い。娘時代は、親戚に預けられと切ない思いをしてきたみたいです。
母はきっと悲しいのだと思います。

どうあがいても別れの時はいつか来るんですよね。
結局、死とどう向き合って生きていくかと・・・。
だから、何のためにと問わざるを得なくなる。

死という現実を前にしたら、何が正しくて、何が間違っているかで思うことさえ煩わしくなる。
とにかく、その時その時を精一杯生きていくとしかいえないですね。
とにかくやり抜くしかないんでしょうね。
自分に徹して。



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