神について思う

経済と神の意志




私は、経済を探求すればするほど、神の強い意志を感じざるを得ない。

なぜならば、目先の利益に囚われていたら経済は回らなくなるからである。
また、人々が協力し助け合わなければ経済は成り立たなくなるからである。

経済を考える時、私は、強い神の意志を感じる。
神は、人々が協力し合わなければ経済が成り立たないような仕組んでおられるからである。

格差が拡大しても、経済は円滑に機能しなくなり、人それぞれの能力や働きに応じて分配された時に最も効率よく働くからである。

富によって争うのは人であり。争いは悲惨な結果を招く。
豊かさは、個人の為に許されたことではなく。
収穫の喜びは分かち合うことによって得られるからである。

経済によって生じる争いは人の招く事である。
そこに私は強い神の意志を感じる。

経済について考える事は神について考える事と同じ事である。



神と経済は、水と油の関係のように捉えている人が多い。
宗教は、政治や経済を賤しい物としてみていると思い込んでいるのである。
しかし、それはとんでもない誤解である。
聖と俗と分け、聖なる存在と俗ぽいものとを区別するのである。

しかし、政治も経済も信仰生活から出ていると考えていい。
特にも経済は、生きる為の活動を言うのである。
信仰と切り離して考える事はできない。
信仰は、生活のあらゆるところに浸透している。

金貸しだって、小口の金を集めて事業することだって宗教団体が始まりである。
宗教団体の多くは金持ちである。
宗教の仕組みは、経済的な効率が高いのである。

金融の原形を作ったのも宗教団体である。
金利の有り様を規制したのも宗教団体である。

経済抜きに信仰は考えられないのであり、信仰抜きに生活はただせないのである。
食事の作法、食べて良い物悪いものを規制するのも宗教である。
夫婦制度を作ったのもの宗教である。
生まれた時、結婚した時、病気の時、死んだ時全てを取り仕切っているのは宗教である。
故に、経済と信仰は、不可分の関係にある。

物的世界と精神的世界とを区分する事は難しい。物質的世界は卑しく、精神的世界は、気高いなどと決めつけたり。
逆に精神的世界など虚構であり、物質的世界が実体なのだなんて言い切れるものではない。
唯物的でも、精神力だけでも生きていけない。
大切なのは物心両面から生活を支えている事であり、それは宗教である。

存在は、主体たる自己と自己の外の存在とからなる。自己の内なる世界と、外の世界を結びつけているのは、自己の肉体である。
自己の肉体は、肉体という物質と意識という精神作用の二つからなる。
この両者の存在を統一するのは、自己を超越した存在、神でしかない。

だからこそ、神は、経済を賤しむどころか神と経済とは一体なのである。






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