神について思う

共鳴共感

話し合いをしていて感じるのは、自分の意志を表現する手段は、言葉の持つ意味以外に話の形もあるという事である。
同じ事を言っていても話の頭に否定的な言葉を付けたり、反論の形式をとると相手は、内容よりも形式が意味する事を優先する傾向がある。

頭から、駄目だとか、反対だとか、違うとか、でもとか、しかしと付けると実際は肯定的な発言なのに、相手は否定的にとってしまう。よく口癖ででもとか、しかしと言う人がいるが、そういう人と出くわすと説得するのに骨が折れる事がしばしばある。

そういう人にとっては意見は反対意見でしかないから本当に始末が悪い。
何を言っても反対なのである。

哀しいかな。右と言えば左。左と言えば右なのである。

僕は、何事も共鳴共感からはいるべきだと思うのです。
その点はよく誤解されますね。
僕らの世代は、弁証法的アプローチしかなくて、共鳴共感という言葉すら死語だったからですからね。

だから最初から反対否定されていると思うんですね。
反対も否定もしていないのにですよ。

弁証法的なアプローチが蔓延していて閉口することがあります。
弁証法的アプローチというのは、テーゼ、アンチテーゼ、アウフヘーベンという展開を前提としている。

弁証法は、弁論術、或いは、研究開発、変革の技術としては有効でも科学的論理とは言えないと思います。なぜなら、前提に対する否定を前提としている為、根底の仮説が最初から不確実なことになる上、否定そのものが一定の方向を持たないからである。そうなると二重に不確かな前提となるからです。

弁証法は、対立と否定を前提として成り立っている。
第一の問題は対立を前提としているという点である。
第二の問題は、否定を前提としているという点である。

先例は悪い、年寄りは古い、古い事は悪いという決めつけから入る。
自分は、物事の是非善悪に、新旧、老若、男女の別はないと思っています。
良い事や悪い事に、古い新しいはない。
否定的であったり、反抗的だったり、又、対立的であっともそれが解消されるのならば問題がないのだが、解消されないと禍根を残すこととなる。頭から相手を否定してかかれば、最初から妥協の余地などなくなってしまうのである。
頑なになるだけである。

それでなくとも物事を決めてかかっている人間を多く見受けるようになってきたのでから・・・。
頭から、古し者は悪いと決めてかかられると話のしようがなくなる。
一見筋が通っているように見えても全然論理的ではないですからね。

否定とは、形だと言う事に気がついていない人が多い。
例えば、同じ事をいっていても、頭に、でもとか、しかしと付けると否定していると軟式されてしまう。
この様な場合、一番質が悪い。内容は肯定しているのに、形式で反対している。そうなると反対している事の意味を失う。

この様な形をとるのは、相手の言っている事の意味がよく理解できないので、賛成する事も出来ないから、取り敢えず否定的に反応しておこうとした場合によく現れる。
相手の言っている事が理解できた時、反対している理由を失う。理由を失うのだが、反対したという形だけが残る。こうなると感情しか残らなくなる。妥協できなくなるからである。

だから否定的な形ではいると、後々面倒な事になる。

否定は、否定される側より、否定する側に問題を残すことが多い。
自分がやりたいことしたいと思えば、僕を否定してくるでしょうから。
ただ、否定的に入ると否定された人間より、否定した方が大変だと思います。
一度否定してしまうとなかなか引っ込みがつかなくなりますから。

大体、共鳴共感を前提としていれば、いくら外面をあわせていたとしても
真のない人間は自分から去って行きますよ。
共鳴共感された方が怖いですから。
誤解していたことに気がつくと仲間は、逆にお前はなぜ反対しないのかと聞きますね。
だって反対した所で意味ないでしょ。大切なのは、伴に喜び苦しみを分かち合っていくことです。その為には、共鳴共感こそ原点なのだと私は思います。

何でもかんでも否定的に捉えられるのも困りものですが、それ以上に困るのは、何でもかんでも頭から決めてかかっている人間ですよね。

多くのことが決められているという思い込んでいる人や決めつけている人が大勢いる。
子供の頃は親が決めた事、学校に入ったら先生が決めた事、社会に出たら社会の決め事、会社で決められたこと。

結局、勝手に自分で決められていると思い込んでいて、何も変えられないと思い込んでいる。
それでいてどうにもならなくなると突然怒り出したり、反抗的な態度をとるようになる。
急に、誰も俺のこと理解してくれないと怒り出す。

話し合って穏やかに変えよっと言う努力を最初から捨てている。

だから、大人に対して、或いは、過去のことに対して否定的になる。何でもかんでも、反対反対と否定的になる。
それを反抗期というのは早計である。
反抗的にしているだけなのである。

日本人は、狭い世界に住んでいる。
言葉も習慣も共通している。
故に、高い合意や前提に基づいた生き方をしている。
だから、自分達の常識は世界の常識だと思い込み、決めつけている節がある。
しかし、日本人社会は極めて特異な世界である。その事は、自覚しておく必要がある。

何でもかんでも疑ってかかれとか。
個性とは人と違うことをするとか。
かつて学校で吹き込まれてきた。
ある意味で今の学校教育は洗脳教育である。

考えてから決めろなんて教えるから、何も決められなくなる。
決めてから考えるのである。決めれば変更することも決められる。
要するに決断は決断の積み重ねでしかない。
決断する前に、考え込ませたら何も決められなくなる。

決めるという事をさせないから
決められなくなるのである。

決めるという事は否定することより創造的なことをしなければなりませんから。
だから、僕は、いつも先輩と喧嘩してきた。あなた方は、破壊ばかりして何一つ後輩の為に創造的なことをしてこなかったではないですかと・・・。
僕は、次の世代が新しい時代を創造する為の道筋だけは作っていかなければと思っています。

指導者を育てるというのは並大抵のことではありません。
叱られる人間は同情されても、叱る人間に同乗する者はいないんだよと幹部には常日頃から言っています。
これから専務が歩む道は平坦な道ではないと思います。
だからこそ、共鳴共感できる仲間が大切なのだと思います。

ただ、気を付けなければならないのは、共鳴共感は負の感情において効力を発揮しやすいという事である。
正の感情というのも共鳴共感は力を発揮はする。しかし、正の感情における一過性の場合が多い。
愛情は、一人の人間として強い力を発揮するが、愛情を長く共有できるのは、親子、兄弟と言った血の繋がりがあるものに限られる。
しかし、恨み辛み、憎しみ、復讐心を集団で共有し、共通の敵に向かうと、それは圧倒的な力を発揮する。

この様な負の働きを克服し、前向きに力に変えるのは、志である。
志こそ、共鳴共感を肯定的な力に変え、人々を成功へと導く源泉となるのである。








TOP         Contents         NEXT


このホームページはリンク・フリーです
Since 2013.10.21
本ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.


Copyright(C) 2001 Keiichirou Koyano