2013年10月23日 11:07:32

神について思う

人の苦しみとは何なのだろう



人の苦しみって何なんでしょうね。
心の奥底でうずくような苦しみって。
もう自分も還暦を過ぎて、同世代の連中は定年の年を迎える。
これから定年を迎える人の中には、合併したり、倒産したりして、若い頃に自分達が思い描いてきた会社とはまるで違った会社に変質をして。
まるでそれまでの人生を否定されるかの仕打ちを受けいる者もいる。
定年を迎えた途端に女房に三行半を突きつけられた者もいると聞く。
あくせくと真面目に働いたその挙げ句に・・・。
会社は誰のものかって、株主だの、社員のものだのそんな事はどうでも良い事なのだ。
会社で働いている者にとって会社は現実であって生活している場なのだ。
そこに、人生があるのだ。
その事を忘れて議論したところで虚しいだけじゃないか。
俺たちは仲間なのさ。
会社に帰って自分の会社の働く仲間達と話をしたんですね。
皆が幸せになれる会社ってどんな会社かなって。
受け身じゃあ駄目だよね。
この会社をどうしたいのかと。
自分で積極的に働きかけなければ嘘だよと。
皆、家族のことや仕事のことで苦しみや悲しみを背負っている。
そう言った事を皆で話し合って解決できるような会社にしたいねって。
だから、もっと積極的に前向きに、自分達の苦しみに対して克服するよう努力しないと。
10年、20年先、ここにいる皆が後悔しないような会社にしたいねって。
新入社員には入社したての時言うのです。
学校は、一方通行だけど、会社は双方向なんだ。
学校は、自分達の力では帰られないけれど、会社は、変えようと思えば変えられる。
だから、自分達がどんな会社にしたいのか、一緒に考えていこうよと。

不思議なものですね。息子がカナダへ行って、忘れない日は1日たりともない。
子供は、日に日に自分のことは忘れていくでしょうに。
自分は、野垂れ死にを覚悟でこの国の為に働きたいと思っている勉強しているのですが、未練なのでしょうね。
社員の事だって同じですね。片時も頭から離れない。
でも社員からしてみればどうでもいい事なんですよね。

皆は生活に追われて世の中を省みる暇はない。
日々の生活に追われて、いつも二進も三進もいかない状態に追い込まれる。
そして、戦争だの騒乱だのが起こる。戦争は不可避に思える事態もある。
その根底にあるのは経済、つまり、人々の生活である。生活が出来なくなるから戦争になる。
じゃあなければ戦争にはならない。好き好んでで戦争なんて起こしはしない。
でも、絶対に戦争は起こしてはならない。
その為には、何とか経済をよくしないと・・・。
社員一人ひとりが幸せになれる会社にしなければ、毎日毎日、考え抜いています。
働いている者達が報われない会社なんて意味ないですよ。
一生懸命皆と働いて、それで駄目になるのだとしたら、仕方ないじゃないですか。
皆が守ろうとするなら、会社なんて簡単に潰れはしませんよ。
皆がもういいやって思い始めたら、本当に危うくなってしまう。

生きるという事はそういう事でしょ。
子供のこと片時も忘れませんよ。哀しいほどに・・・。
でも幸せじゃあないですか。
共に生きる仲間がいれば・・・。

学生時代、多くの仲間がいろいろな悩み事や相談に来るようになったんですね。
まるで人生相談役みたいになって。中には切迫したような奴もいましたけれどね。丁度学園紛争が終焉した時で・・・。
僕は、腹が立っていたんですね。
そりゃあ自分の思想信条で行動する奴はいいが、何の考えもない奴を洗脳するような形で無理矢理引き込むなって許せませんよ。
人各々人生があってその中でいろいろな問題にぶつかり、自分の意志で問題に取り組むべきなのです。強要すべき事ではありません。自覚もないままに政治活動に巻き込んだら責任なんて持てない。一人ひとりの意思を尊重できなければ、思想も信条も最初から成り立たない。
だから、学生時代は青春を謳歌させてやろうと思っていろんな事をしました。
そこで、合ハイだの合コンだの合宿だのクラブ活動だのいろんな事を企画しました。
そうこうしているうちにいろんな奴が僕の処に悩みを打ち明けに来るようになったんだと思います。
皆、それぞれいろいろな事情があって悩み苦しみあがき藻掻いていました。
結局、自分は話を聞いてやるくらいで何もできなかった。でも皆救われ癒やされたと言ってくれるんですが、僕はというと、自分の無力さを痛感させられただけでしたね。
そして、結局、皆に寄り添うことぐらいしか出来ないなと思ったんです。
その時、気がついたのです。
神は、いつも自分の傍に寄り添っていてくれた。僕は、その時、神の気配を感じたのかもしれません。
そして、他人を救うなんて傲慢だと思ったんです。人を救えるのは神のみだと気がついたんです。それで自分少し救われました。
他人を許すことは、難しい。それ以上に難しいのは、自分を許すことだと思うのです。
私の信じる神は、赦す神なのです。神の本質は愛なのです。
ただ許すと言っても本心から悔い改めればと言う前提つきですけれど、ただ外面だけ悔い改めたって赦されない。と言うより、自分が赦さない。だから、神に赦される為には、本心から神に赦しを請い、悔い改める必要があるのです。

あるお客様が、最近、自分は末期癌だと告白してくれたんですね。
まるで、風邪でも引いたような話し振りで立派だなと感心します。
いつものように穏やかにこちらの気持ちを慮って話をしてくれる。
時々涙ぐまれるのですが、偉い方だと思います。
それなのに、自分は、何もできない。
出来ないどころか、お金の話をしなければならない。
この世の中って所詮金なんですね。金がなければ生活が成り立たない。後先の始末も付けなければならない。
でも生きる真実というのは金じゃあない。お金は、所詮生きる為の道具に過ぎない。
お金は儲け方も大切ですけれど使い方はもっと大切ですよね。
今の世の中、お金儲けが上手な人は持て囃されますが、お金の使い方の上手な人は、話題にもなりませんからね。
お金は生きる為の道具ですよ。でも生きていく為には、不可欠な物です。
癌のお客様への思いと残される者への思い。そして、会社の利益。その相克で部下は苦しむんてすね。
お金の問題でけじめをつけなければならない。その上でお客様に寄り添っていかなければならない。
仕事をしているとそういう場面に度々遭遇する。逃げられないし、逃げてはいけない。部下を逃がしてもいけない。最後まで世話を見させなければならない。
皆心で泣いています。
昨日もお客様の集まりがあって当事者の支店長は、感極まりそうになったと言っていました。
僕は、部下に辛い思いをさせなければならない。
だから、直接金の話をしなければならない支店長とその部下に自分一人で抱え込んでは駄目だよと注意しておきました。
苦しみも悲しみも喜びも分かち合えるから仲間なんですよね。
こうやって毎年、一人二人は世話になった方を見送るのが我々の仕事なんです。
その時、その時、生きるとは、人生とは何かを考えさせられてしまう。
会社は人生の吹きだまりなんですね。
泣いて笑って一緒に生きていく場なんですよね。
その生活の場を必死で守っていく事しか僕には出来ないんです。
思い通りにならない現実とどう折り合いを付けさせるか痛みを分かち合える経営者になりたいと思っています。
昨期も定年退職を向かえって社員がそっと僕の処に来てこれまでいろいろ世話になりした。
これからもお世話になりますがよろしくお願いしますと言うから、しばらくなんて言わないでコストパフォーマンスがあえば何時までも雇ってやるから淋しいこと言うなよと言ってやりました。
会社を経営すると言う事は、ともに生きていく事以外の何ものでもないんですよね。

私は、自分の信仰を他人に強要する気はありません。信仰は、自分が目覚めなければ意味がない。
他人に強要されても真の信仰にはならない。そんな神は、似非神にしかならない。
心から救われたいと思ったら神に縋るしかないのです。

イスラム教の人間を残忍で、残虐で冷酷だと言いますが、イスラムだけが残虐で残忍なわけではありません。宗教や思想というのは残忍で残酷な所を持っているものです。
共産主義だって結構残忍です。キリスト教だって科学者を火あぶりにしたり、異教徒を八つ裂きにしたり、魔女狩りなんてかなり残忍です。
彼等も神と対峙しているのだと思います。だからといって神が残忍なわけではありません。残忍で冷酷なのは人の心です。

私は、仏教徒ですけれど私の言う神は、別の次元の存在ですね。
神とは、一対一の関係しかなく、私と神との間には何人もどんな教義も入らない。だから平等なんです。
神の前では、上も下もない。金持ちであろうが権力者であろうか、貧乏人であろうが、あらゆる虚飾が剥ぎ取られ一対一になる。
どんな神を信じるかによって争うなんて愚かなことです。それは人事のことで神事ではない。
人は、死ぬ時、ただ一人裸で神の前に立たされるのだと思います。その時、神は無言でただ見つめているだけなのだと思います。だから、誤魔化すことも欺くことも出来ない。自分を騙すことも欺くことも出来ないからです。
そう思った時、いつも、一対一に神と対峙する事。その時は、素の自分に戻って日々悔い改めるよう心掛ける事にしたのです。
神は、何時でも何処でも我々に寄り添っておられる。
じっと黙って見つめておられる。
その神の眼差しを感じた時、人は真実の生き方しか出来ない。

神は、暗闇の中のかすかな光なんです。その光があるから救われるのです。
私は、今でも父や母や家内や息子を愛しています。
それが光なのです。
相手がどうあろうとその光を信じて生きていく以外に救いはないのです。

神は偉大です。

自分は名も知られずに生きて、泡のように消えていく。
それで本望です。
ただ神への信仰だけは伝えていきたい。
それしか救いは見いだせないのです。

神よ。神よ。神よ蘇れ。




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