2013年10月23日 11:07:32

神について思う

経済は金儲けの事を言うのではない



経済の目的は、金勘定にあるわけではない。
人々を幸せにする事にある。
しかし、何が幸せかというと人それぞれ違う。一概にこれが幸せだと決めつける事は出来ない。
故に、どんな生き方したいのか、どんな家庭を築きたいのか、どんな老後を過ごしたいのか、経済の根本を考えるのは、人生について考える事である。
そして、人々を幸せにする手段としてお金の問題があるのである。この点を間違えると人々はお金のために不幸になってしまう。

何が人として大切なのか。
何を護らなければならないのか。

クリスマスも、正月も、盆も、祭りも本来神を讃え、祖先を敬う神聖な時である。
しかし、最近は、クリスマスも、正月も、盆も、祭礼も単なる空騒ぎ、金儲けのためにあるように思える。
だから、お祭りの晩は、犯罪や暴力沙汰が増え、破廉恥な乱痴気騒ぎになる。
神に対する怖れも敬虔な気持ち、祈りもない。
大体神すら信じていないのである。
信仰心を持つ者にとって神聖な時も、羽目を外す口実でしかない。
ビジネスチャンスに過ぎない。

結婚だって神聖な行為ではなくなりつつある。
要は、お披露目のパティー程度、今では、そういう口実も失われ、単なる仲間内の宴会に過ぎなくなっている。
内容がないのである。
派手さばかりが目立っていて何の目的で結婚式をするのか目的が判らなくなっている。

生きるという事に真摯になれない。楽しければいいではないですかと言われると返す言葉もない。
そういう時代である。生きる事が軽くなってしまった。その分生きる事も軽くなる。
結婚なんて勢いでする事であって一生の伴侶と誓いを立てるなんて大それた事ではない。
だから、厭になればすぐに別れる。
新婚旅行で喧嘩して飛行場で別れるなんて言う事もある。
大体、その前に結婚そのものをしなくなった。

現代社会は、共同体、コミュニティの否定の上に成り立っている気がする。
社会は、本来、人と人との関係、絆の上に成り立っているはずである。
そして、人と人との関係は人間の信頼があって始めて形成される。
その信頼を生み出すのは、相手に対する愛情である。
ところが、現代社会は、その情愛を斬り捨ててしまおうとしている気がする。
つまりは、人間と人間の情愛によって成り立っている集団を現代社会は否定する事によって形成されてきたのである。
この事を明確に自覚しないと我々がこれから生きていく社会が見えてこない。

現代は、サラリーマン社会に変貌しつつある。サラリーマンを基礎とした社会に変化する過程にあると言える。
サラリーマンとは、月給取りである。
つまり、月単位に決められた報酬を、労働に応じてお金でもらう事によって生計を成り立たせている人種である。
この様な月給取りと言う人種は、近代になって出現した。

現代人は、サラリーマン、即ち、月給取りを普遍的な存在だと思い込んでいる。
しかし、サラリーマンというのは、極めて今日的な特殊な人種なのである。
確かに、過去にも月給取りに似た存在はいた、しかし、月給取りが成立するためには、先ず貨幣制度が浸透していなければならない。
また、所謂、月給取りは、一代限り制度的なものではないという点である。
そして、月給取りには、定年退職がある。定年退職というのは、ある意味で人生をリセットしてしまう事である。
その時点で、一人一人の過去の記憶も、経験も、知識も、功績も、実績も総て清算され抹消される。残ったとしても単なる記録としてである。
その人の魂は痕跡もなく消え去る。現代人はその事の意味を考えようとしていない。
生きるとは何かと言う事を忘れている。

キーワードなるのは、お金、雇用、報酬、定収、定年退職、一代限りである。

月給取りというのは、一定の時間を切り売りしているようなものである。
月給取りというのは、人生がない。
人生を問題としていない。
これが現代経済の特徴である。
仕事と人生が切り離されているのがサラリーマンである。
だから、月給取りの仕事に人格はない。
人としてどの様な仕事をするかは意味を持たない。
人間性は、仕事には求められない。
月給取りにとって仕事と人格は無縁なのである。
誰がやろうと仕事は変わらないのである。それが前提である。

同一労働、同一賃金が原則である。
どんな仕事も時間を単位として同一な事に分割できる事を前提としている。
つまり、サラリーマンは人でなしである。

定年退職するとそれまでの仕事、人生はリセットされる。
定年退職後は、誰にも、必要とされず、役にも立たず。ただ生きているだけ。
必要とされるための動機がないのである。
親と子という関係も無意味で虚しいし、師と弟子というのも空々しい。
愛情だって移ろいやすい。
無条件な関係なんて何処にもない。
ただ金銭的契約の上でだけで成り立っている人間関係である。
だから、金銭に対して執着する。
定年退職後は、過去もなく、未来もなく、ただ今だけがある日々が続くのである。

人間関係というのは、従来、生涯継続する事を前提としてきた。
しかし、これからは、人間関係も期限付きになる。
生涯の友という関係は成り立たない。
親子だって然りである。
親は、子が独り立ちするまでは面倒をみるが、独り立ちした後は、関係がなくなる。
自然界もそうだと言われれば、それまでだが、これまでの人間関係と異質である事は間違いない。
親子の情愛なんて過去の事である。
親は、年を取れば見捨てられる。

仕事仲間も同様である。
働けなくなり、金が稼げなくなれば、見捨てられるのである。
それがサラリーマン社会である。
義理人情では成り立たない社会である。
何もかも金中心だからそうなるのである。
人と人との関係も金銭関係でしかなくなってしまう。
結局、金でしょという世間である。

これは思想である。言うなれば月給取り主義という思想である。

「死に水を取ってくれ。」とか、
「我ら生まれた時は違えども、死すべき時は同じと願わん。」
結婚式の時に、「その健やかなる時も、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも 富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け。その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか。」といった言葉にこそ経済の本質は込められている。

つまり、人間としての生き様があって経済は成り立っているはずである。
人として如何に生きるべきかを明らかに出来ない経済は、経済ではない。
その様な経済は、家畜か、ペットの為の経済である。
自立した人間の経済ではない。

経済とは、生きる為の活動である。
人は、生きる為に金を必要としているのである。
金儲けをするために生きているわけではない。
金は目的にはならない。金は手段なのである。

金が目的となったら、人は無間地獄に落ちていく。

経済は、生き生きと生きる為の手段なのである。
如何に充実した人生を生きるか、それがあってその為の手段として金儲けがある。

そして、それを実現するためには、人と人との関係が基本になるのである。
汝愛せよ。愛こそが経済に魂を吹き込む。
愛のない経済は、魂のない肉体と同じ、骸に好きない。
ただ醜く朽ち果てていくだけだ。
経済の基本は人と人とが愛し合い助け合って生きていく事にある。

生きるとは何か。その問いかけを忘れた時、経済学は、学問として成り立たない。
どんなに阿漕(あこぎ)な生き方をしようが、人でなしな生き方をしようがお構いなしである。
会社から命令されれば、どんな事でもやってしまう。自分の道徳観や人生観、信仰等関係ない。
金のためと言うより、自分の地位を守るために友達だって、師だって、親や兄弟を売っても痛痒とも感じない。

何のために、自分の職業を護るためである。
それが月給取りの性である。

一流企業に勤め、出世する事だけが総てである。
出世のためなら何でもする。
人を欺く事でも、同僚を蹴落とす事でも、家族を捨てる事でも、国を売る事でも、買収だって、汚職だって、誇りを捨てる事も、魂を悪魔に売る事だって何でもする。

そこに罪の意識なんて欠片もない。罪の意識なんて持ちようがない。
人に情けなどかけたら生きていけないのである。
落ちこぼれてしまうのである。

助け合いだの、哀れみなんてきれい事としてしか思えない。
弱者は斬り捨てられるだけである。
用がなくなれば情け容赦なく斬り捨てられる。それが月給取りである。

現代人にとって働く喜びとか、生きる事の意義なんて何の価値もない。
戯れ言に過ぎないのである。
生きる目的を金儲けだとしているからである。
金儲けがではない、人間は、親であろうと無価値なのである。
働く事の喜びなんてどうでもいいのである。

現代人には、一人になると言う事の恐怖心がない。
今のように法や制度が確立され、一人でいても差し迫った危険性を感じない。一人になると言う事に対して何の怖れもいだいていないのである。
真夜中でも女性一人で外を出歩く事が可能な社会では、一人で生きていく事に何の不安もいだかない。しかし、現代社会でも、一度、治安が乱れ、又、騒乱状態になれば、一人で行く事は困難な状態にすぐに陥る。
元気な時は、心理的な意味でも一人で生きていく事に何の不安もいだかない。
それが会社勤めをしていたら尚更である。

国家以外のコミュニティ、家族さえも否定してしまった現代社会では、一人で生きていく以外に選択肢はなくなりつつあるのである。
それも年老いて働けなくなった時に、孤独な生活しか選択肢がなくなるのである。
その時は、社会的にも力を失っている。

人は一人では生きていけない。

苦楽を伴にできる仲間。
同じ釜の飯を食った仲。
そう言った人生を伴にできるから仲間なのである。

同じ会社、同じ職場にいるから仲間なのではない。
大体、同じ会社、同じ職場にいる者は、競争相手でしかない。
共鳴共感なんて生まれやしない。

現代社会では、全てを階級闘争の枠組みの中に押し込め。
対立、闘争、競争を前提として社会を築き上げている。
そこには共鳴共感はない。
会社の奴隷になるな、会社は搾取する手段だと煽り。運動家は組織の拡大に努めてきた。
愛社精神とか、愛国心なんて右翼的だと全否定し、働く者だけしか団結できないと決めつけた。
終身雇用を真っ向から否定してしまったのである。

愛社精神にも定年が出来てしまったのである。

しかし、考えてみよう。会社は二十四時間社員を見守っている。
女房子供より、一緒にいる時間は長いのである。
無断で会社を休めば、すぐに連絡をして安否を確認してくれ。
病気をすれば保険の手配をしてくれるし、検査もしてくれる。
事故をすれば真っ先に駆けつけてくれるのも会社である。
それを敵だと決めつけるのは行き過ぎである。敵なのではなく。敵にしてしまっているだけである。
人生の想い出は職場にあり、自己実現は労働の場にこそある。

定年退職後は、全てをリセットされ、家族崩壊、独居老人、孤独死、老後倒産、引き籠もりと老人の疎外孤独は深まっていく事になる。それがサラリーマンなのである。

現代人には、サラリーマン社会は極めて特殊な社会なのだという自覚がない。
サラリーマンとは、基本的に月給取りであり、サラリーマン社会とは、月給とのを基礎とした個人主義的社会だと言う事である。
現代社会は、突き詰めていくと最後は一人で生きていくしかなくなるのである。

職場がそれ程人生に深く関わっているのだとしたら、最後まで一緒に生きていける様なホームに変えていくべきなのである。

それは、血縁関係を土台とした家から、信頼関係、契約関係を土台とした家に変えていく事なのである。

おぎゃあと生まれた時、人々の愛に育まれる。
それが生まれた時からの宿命である。

個人主義が行き過ぎて、個人主義が利己主義に変質してしまった。
利己主義が極めた所に居るのは、子を捨てる事であり、親を捨てる事である。

愛に背き、情けを捨て、絆を断ち切る事である。
残されたのが金。
だから、現代人は、金に執着する。
哀れ。哀れ。

どんな人間関係を望んでいるのか。
どんな生き方をしたいのか。
どんな生活を望むのかが、明らかであってはじめて経済は成り立つ。

しかし、人と人との関係を断ち切り、金だけを信じる。それを経済だと思い込んでいる事に現代人の不幸の種がある。

年を取り、働けなくなった時に、何を頼って生きていくのか。
どの様な臨終を迎えたいのか。
誰に看取られたいのか。

何も信じられない。
親も、妻も、夫も、子も、兄弟姉妹も何も信じられない。

そこにあるのは、無間の孤独。

助け合い精神だの、憐憫なんて一文の足しにもならないから持ちようがない。
弱者保護も法か金銭契約でしか実現できない。法や契約が成立しなければ斬り捨てられる。
慈善は、偽善でしかない。
月給取りの世界は、決して人に優しい社会ではない。

それでは疎外感が生まれ、鬱になるのも道理、道理。

自分は、会社というものの本質は、社員一人一人も思いが創り出す事だと信じている。
その一人一人の思いがどこかへ行って金儲けの話だけが残されてしまった。
会社は本来、運命共同体なのである。

神が信じられなくなったら、ただ、現実を無条件に受け入れるしかないではないか。
神を信じられるからこそ、人と人との絆が最後まで残される。

高齢者問題は、介護施設や制度の話ではない。
人生いかに生きるかの問題である。

ところがいつの間にか金の問題にすり替わってしまった。

豪華な施設で臨終を迎えたいのか。
愛する人々に看取られたいのか。

そんな事はどうでもいいのである。

これからの時代、年老いた時、子供に世話になるなんて考えたり、期待したりするのは間違いである。
その証拠に、高齢者問題は、公では、施設や制度の問題に過ぎない。

現代人にとって生き甲斐とか、道徳とか、親子の情愛とか、そんな事は、どうでもいい事なのである。
だとしたら、新しい人間関係、新しい絆を求めるべきなのだ。
信じ合い、慈しみ会える仲間がいたら、彼等にこそ死に水を取ってもらいたいし、どんなに粗末な家でも、貧しくとも、助け合っていける自分達の家があれば、それに越した事はない。
何を子供に求め、期待する必要があるのか。

現在、仲間と言う言葉も死語になりつつあるが、これからは、真の仲間がいるかいないかが人生における晩年を決める。
最後は助け合って生きる事の出来る。心を許しあった家族以上の絆で結ばれた仲間を作れるかどうかが幸、不幸を分けてしまうのであろう。

死んだ父が幸不幸は晩年で決まると言っていたが、これからはそれが実感となる時代が来るのである。

経営者や政治家が歳をとっても引退しないのは、一人になる事の怖さを知っているからである。

自分達の手でホームをつくれるか否かの問題だと思う。
最後まで助け合って生きていける仲間作りそれが人生の鍵を握っているのである。

神と、神を信じる者達だけで新しいコミュニティを建設すれば良いのだ。
施設でも、制度でもない。
相手を慈しみ、思いやる心なのだ。
それさえあれば何も怖れる事はない。

老いて働けなくなった時、何が一番哀しいのだろうか。
人々から無視され、必要でないとされる事こそが苦の原因なのである。
それは神の愛でしか、満たされない。

人として如何に生きるべきか。
それは神に問うべき事である。





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