2013年10月23日 11:07:32

神について思う

素直



自分達の世代は、何でもかんでも反対しなければならないと躾けられた。
何でも疑ってかかれと。
だから、素直になれきれない仲間が多い。
意見と言えば反対意見だと思い。
何かというと斜に構え、何事にも冷ややかに、世の中は甘くないさと、批判的になる。
知識人と言えば、反権威、反体制を気取れば様になる。
権力を握っても反体制を標榜する。それでは、国が、纏まるわけがない。

批判精神がなければならない。
安易に、はいはいと従うのは奴隷根性だと。
そう言われて育っていながら自分の意見が持てない。
要するに、自分が持てないのである。
人を批判したり、人の意見に反対する場合は、一番肝心となるのは、自分なのである。
先ず自分の意見、考えが合って他人の意見や考えに対して自分の意見が言える。
自分の考えがない癖に、他人を批判した所で、それは、他人の意見の影に過ぎない。
幻のようなものである。
自分というものがあって他人に対して応答できる。
最初から何か何でも反対しろだの、批判しろだの、疑ってかかれでは話にならない。

人は皆違うのである。
それは大前提である。
それが又、平等という概念の前提でもある。
何でもかんでも同等に扱えばいいというものではない。
それを平等というのではない。
平等というのは、人それぞれの違いを前提とした上で成り立っているのである。
違うものを同じだとして扱えこと自体不平等である。
人は、自己という存在の上に平等なのである。

だから、素の自分がそれぞれが出せば、自ずと違う意見になる。
百人いて、百人がまったく同じ意見になる方が恐ろしい。
百人いたら、百人が何らかの形で違ってくるのが当たり前。
同じ事を言ったとしても、その人の性格や、背景が違えば本質が違ってくる。
あえて反対か賛成かを意識する必要はない。
先ず、それぞれがそれぞれの率直な意見を言わなければ恥マライのである。
違いばかりをことさらに強調する必要はない。
素直が一番なのである。

それぞれの違いを理解した上で、共通点を模索するのが会議である。
何が妥協できて、何が妥協できないのか。
その点を明らかにする過程が会議なのである。

人々の差を生むのは、人々の意識である。
神は、人間の思惑を超えた所に存在する。
だから、会議は、神に対する祈りとなり誓いになる。

信仰こそが会議を成立させるのである。
人々は素直に自分の真実を語る事を神に誓わなければならない。
虚偽を語る事は自分と神に対する背信となる。
信仰がなければ会議に真実は現れない。

神は民主的な存在である。
民主主義こそ神の意志を反映できるのである。

神の名の下に人々の意思は統一される。
故に、神は唯一の存在なのである。

神の前にあるがままに自分の思いをぶちまけ。
自分をさらけ出し。
泣いて、喚いて、神の赦しを請う。
神の前に素の自分をさらけ出した時、本当の人生が始まる。
自分を偽り飾っているかぎり、神の真実は理解できない。



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