2013年10月23日 11:07:32

神について思う

正義と暴力と法



 正義は、暴力によって実現し、維持されている。

イスラム教徒も、キリスト教徒も、仏教徒も、自由主義者も、民主主義者も、共産主義者も、社会主義者も、独裁者も、民族主義者や、国粋主義者も、反戦主義者も、誰もが、皆、正義を振りかざして暴力を振るっているのである。
 ただ、その暴力の根源が違う。つまり、暴力を正当化する根拠が個人なのか、神なのか、組織なのか、聖典なのか、思想なのか、血統なのか、契約や法、集団の意志、掟のようなものかの違いであって、暴力的に争っている事に違いはない。
 非暴力と言ったところで、ある種の暴力を前提としている。

 だから私は、暴力を否定しようとは思わない。暴力を否定したところで暴力はなくならない。かえって暴力団みたいな者達をのさばらせるだけである。

 国家は暴力装置であり、如何に暴力を制御するかが、国家最大の課題である。
 国家の暴虐ほど国民を苦しめ、近隣諸国の脅威となる事はない。
 国家が一度、凶暴、粗暴な本性を露わにしたら、それを抑止する事は難しい。
 しかも、各々が正義を振りかざして、国は千々に乱れ、統一性が保てなくなり、垂直方向にも、水平方向にも分裂していく。
 外からはその国土が犯され、内からは、背かれる。

 暴力は制御されなければならない。
 暴力を制御するのは、法である。法の正当性を保証する、即ち、法源は、建国の理念である。建国の理念の本質は、国家正義である。
 国家正義は暴力によって作られる。それが革命である。

 法と正義と暴力。この三つの力関係によって国家のあり方は決まる。

 突き詰めると暴力を正当化しうるのは、正義である。
 正義の根源は義であり、義は自己善を集団によって洗練した事である。
 即ち、正義の源は、自己善である。自己善の根源にあるのは、自己の存在である。
 自己の存在を突き詰めると神の存在となる。
 神は善と悪を超越した存在である。
 故に、何が善であり、何が悪かではなく。
 神への信仰以外、正義を正当化しうるものはない。
 しかし、神が善悪を超越した存在であるとしたら、何を正義とするかは、所詮、人間の都合による事になる。
 何を正義にしたかによって生じた結果に対しては、人間が責任を負うしかない。
 正義は、絶対的な事ではなく。相対的な事なのである。
 神への信仰はその前提の上に成り立っている。

 民主主義、自由主義の根拠は、契約に基づく集団の意志である。
 それが法治主義である。法の下の平等であり、法の下の自由である。
 しかし、法も暴力によって実現し、維持されている事だという点を忘れてはならない。

 神は絶対的な存在であり、人の認識は相対的である。
 神は善悪を超越した存在である。
 故に、善悪を定めるのは人なのである。
 人が生み出す事に絶対的な事はない。
 故に、法も相対的な事である。
 法の正当性を担保するのは契約、誓約という手続きである。
 法の正統性は手続きによって保証される。この点を忘れてはならない。
 人の罪は、人に由来し、神に由来する事でない。
 罪を犯すのは人である。罪を赦す事のできるのは神のみである。

 故に、暴力は最終的な解決をもたらすわけではない。
 暴力は手段なのである。

 神は、暴力を正当化したりはしない。しかし、神は暴力を否定しているわけではない。
 暴力の是非は人が決めることだからである。
 暴力によって人類が滅亡したとしてもそれは人類の罪によるのである。
 人類が暴力的に環境を破壊したとしても、その報いは人が受けるのである。

 社会の法は、自然の法則と違って人が定めた事なのである。
 故に、絶対性はない。

 常に、人は神と対峙し、神に赦しを請う以外、救いは得られないのである。

 国家は、暴力装置である。
 国家は、国家は何らかの善の基準、正義を土台としなければ競り立たないのである。
 なぜならば国家は観念の所産だからである。
 そして、その正義を国民国家において正当化しうるのは民主的手続きである。
 つまり、民主主義は手続きによって成り立っている思想なのである。
 そして、その手続きを維持しているのは、民主主義という仕組み、制度なのである。

 国家の正義は、軍と警察によって体現される。
 そこに武人の存在意義がある。
 武人の存在意義は暴力によるのではない。
 武人の存在意義は、正義によるのである。
 何を護るのかによるのである。
 そこに忠誠心の根源がある。
 軍人や警察官は、国防や治安の要と言うだけでなく、国家正義の体現者でもある。
 仁と義に武人の存在意義があり、名誉や忠誠心の源がある。
 礼と智によって武人の正義は表現されるのである。
 それが神の意志である。
 軍人や警察官の道徳を保っているのは国家正義である。
 国家正義の信任が失われれば、軍人や警察官の存在意義、名誉も信義も失われる。

 故に、国体が変われば軍人や警察官の魂も変わるのである。
 国家正義は建国の理念に基づく。
 国家正義は憲法である。

 パンをよこせと背いた国民が、国のためにと命を捨てていく。
 なにが国民を駆り立てるのか。
 そこに国家正義の正当性が隠されているのである。
 ただ、パンをよこせと背くのも、国のためと命を捨てていくのも。
 その根底には暴力が潜んでいる事を忘れてはならない。

 国は、海のようである。
 穏やかな時は、人々にとって恵みの海も一度荒れれば、津波となって多くの人々の命を奪い、生活を破壊尽くすのである。
 人は、海を崇め又、怖れるように、国を崇め、怖れなければならない。
 その本源に国民の意志があり、建国の精神があるのである。
 それが国民の権利と義務に結実したのが国民国家である。

 法と正義と暴力、これこそが近代国家、国民国家の礎(いしずえ)である。

 国家は暴力装置であり、如何に暴力を制御するかが、国家最大の課題である。
 国家の暴虐ほど国民を苦しめ、近隣諸国の脅威となる事はない。
 国家が一度、凶暴、粗暴な本性を露わにしたら、それを抑止する事は難しい。
 しかも、各々が正義を振りかざして、国は千々に乱れ、統一性が保てなくなり、垂直方向にも、水平方向にも分裂していく。
 外からはその国土が犯され、内からは、背かれる。

 国家の暴虐は、神の意志に依るわけではない。
 国家の暴虐は、人の本性に依るのだ。

 この世界は神によって作られた空間であるが、国は、人が生み出した空間なのである。
 人が作り出した揉め事は人が解決せねばならない。

 突き詰めたところに存在するのが神の国である。
 神の国を信じて、人は自らを戒めなければ平和を実現する事は叶わない。
 暴虐の後に残されるのは、憎しみと暴力である。
 神の国にあるのは慈しみと愛である。

 神を信じ。神に祈れ。
 そして、悔い改めるのである。

 神に栄光あれ。





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