2001年1月6日

神について思う

勧善懲悪


 日本人は、勧善懲悪的な話が好きだ。特に、時代劇に勧善懲悪は多い。水戸黄門漫遊記にしろ、大岡越前にしろ、遠山金四郎にしろ、悪党は、最初から決まっていてそれを主人公がやっつける。むろん、これは、日本に限ったことではない。古くは、中国の西遊記も然りであるし、新しいものは、ヒーロー漫画のほとんどが現代版勧善懲悪である。
 勧善懲悪の話は、スッキリはするが、何かシックリしない。リアルな感じがしないのである。現実は違うとある程度の年齢に達すると思い始める。だから、今では、勧善懲悪は、少年少女の物語だと思われている。
 なぜ、勧善懲悪は、現実的ではないと感じるのであろうか。それは、予め、善と悪とがハッキリとしていると言うことにあるように思われている。かつては、善と悪とは、ハッキリとしていた。そして、その基準に当て嵌めれば、善人と悪党が簡単に識別ができた。だから、かつては、勧善懲悪が成り立ち、価値観が多様化した現代では勧善懲悪は成り立たないと言うのがその理由である。しかし、本当にそうであろうか。
 勧善懲悪というのは、物語である。悪の栄えた例(ため)しなし。つまり、悪行をする者は、報いを受ける。受けなければならないと言う前提によって成り立っている。逆に言えば、報いを受けていなければ善と言うことになりかねない。勝てば官軍、栄える者、成功者は、善であり、敗者、滅びる者、失敗した者は、悪であるという思想である。だから、勧善懲悪の首謀者は、権力者である場合が多い。と言うより、何らかの権力を背景にしないかぎり、勧善懲悪は成り立たないのである。
 ウィリアムテルやロビンフッド、水滸伝、鼠小僧のような話はある。しかし、彼等にも善を善たらしめる存在はあるのである。権力者でなくとも、権威者である。それに、彼等も最終的には、権力者になる。つまり、権力闘争なのである。つまり、社会正義は、何らかの社会的正義を背負っており、その社会正義は、権力によって保障されるのである。
普遍的な善と悪があって、その善と悪に照らし合わせ善人と悪人がいて、悪人は、自分が悪を為していると自覚している。それを前提として勧善懲悪は成り立っている。しかし、この様な普遍的な善というものはあり得ない。
 普遍的な善が前提とされなければ、悪人としての自覚はあるのであろうか。悪を自覚できなければ、悪人は、悪人なのか。
 テロリストは、彼等なりの正義をもっている。テロリストは、確信犯なのである。アメリカに対するテロは、テロを仕掛けられるアメリカにとっては、許し難い暴虐だが、テロを仕掛ける側にとっては、アメリカによってそこまで追いつめられたという論法である。だから、お互いに責任の擦(なす)り合いになる。
 勧善懲悪と言うが、その大本となる善と悪は、何の根拠によって誰が決めたのかとなると多分に心許ない話になる。悪意で行動する者は、基本的にいない。善というのは、自己善なのである。つまり、自分を悪党だと思っている人間はあまり居ない。盗人にも三分の理と言う諺があるが、全て自分が悪いというのは、自分の存在をも否定してしまうことになる。という事は、悪党というのは、自分の善悪の基準に照らして悪いことをしている者を指して言うのである。こうなると悪党というのは、それぞれの自分勝手な独断で決まると言う事になる。
 つまり、勧善懲悪的な話に違和感を感じるのは、封建的な価値観がなくなったからでも、普遍的な価値観が失われたからでもないのである。もともと、普遍的な善悪という価値観は、なかったからである。つまり、誰もが正しいという善は、幻想に過ぎないのである。ありもしない価値観に基づいて、一方を悪と決め付けて裁いてきた。それが勧善懲悪の実体である。だから何がしかの違和感を現代人は感じる。それでも、善玉を善玉と信じていられるうちは痛快である。しかし、一度、疑問に思い始めたら、おさまりがつかなくなる。天下の副将軍がとんでもない独裁者なのかもしれなくなる。こうなると、善と悪は、物語を作成する時、予め設定しておく必要がある。予め、あいつは悪党で、こいつは、善玉だと決めておく必要がある。しかし、現実には、そんなことはあり得ない。そんなことを頭から決めてかかったら、そいつこそ悪党である。ならば、勧善懲悪とは、物語の上だけでしか成り立たないのであろうか。夢物語なのだろうか。
 ところが、この様な勧善懲悪的な価値観によって社会制度は築かれていることは紛れもない事実なのである。社会正義の危うさがそこにある。
 また、社会正義の危うさを自覚したところに、民主主義は成り立っている。だから、民主主義の根本は、契約なのであり、約束事であり、国民的合意なのである。善悪ではない。
 悪魔というのが自己矛盾の最たる者のように、根っからの悪人というのも、矛盾に満ちた存在である。なぜならば、善は自己善であり、相対的な基準だからである。絶対的な善というのは存在しない。悪とは、この相対的な善、自己善に反した行為である。人には、それぞれの言い分がある。その言い分に各々が納得するかの問題なのである。どちらか一方が正しくて、他方は、悪だというのではない。どちらも自分は正しいと思っている。それを何処で折り合いをつけるべきかの問題なのである。だからこそ、話し合い、時には、議論をする必要があるのである。そこに民主主義の原点がある。
 悪人というのは、自分から見てある種の側にいる人間を指して言うのである。自分と相容れない価値観の側にいる人間を指して言うのである。それは別の世界の人間である。自分の価値観と相容れない側にいて、それが許せる範囲を越えている側にいる人間が悪人なのである。悪人とは、不倶戴天の敵を指して言う。問題は、自分価値観と相容れることができない側だとしてもそれが許容できれば、共存することはできる。ならば、それが許容範囲の内か外かが、重要になる。悪とは、その許容を越えたところにある。だからこそ、深刻なのである。
 民主主義は、お互いが許容できる範囲を共有することによって成り立っている。人間は、その場でしか共存できないのである。つまり、民主主義の本質は、普遍的価値基準ではなく、場の理念なのである。それ故に、民主主義では、勧善懲悪は成り立たない。つまり、勧善懲悪の前提となる普遍的な価値基準が成り立たないからである。それに代わるのは、場の理念である。つまり、場を支配する力、法である。民主主義で成り立つのは、違法か否かである。違法か否かは、善悪とは無縁である。もし、善と悪とがあるとしたら、それは、自分にとってである。自分の信念、内なる神に対してである。そして、それ故に、至純な精神が求められるのである。我々は、自分に対して忠実でない限り、自らの正しさは保てない。それが民主主義なのである。民主主義において、善を実現するのは、自分である。いくら待っても正義の味方は現れない。救いは自らが求めない限り与えられないのである。逆に、いくら法に反していないからと言って自らの善に背けば、悪となり果てるのである。つまり、民主主義国における勧善懲悪とは、自らの善に対してのみ成り立つのである。それが個人主義である。故に、個人主義ほど自分に厳しい思想はないのである。なぜならば、個人の背後にあるのは、内なる神だからである。







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