2013年10月23日 11:07:32

神について思う

神話V





神話は、精神世界の出来事である。
神話は、精神世界では現実である。

神話を物質的な世界に置き換えその信憑性を意味のないことである。
肝心なことは、神を信じるか否かの問題であり、人間が猿から進化したしたかどうかではない。

神話や聖書に記述されている事は、精神世界の出来事である。
神話的世界は自分の内面の世界である。
自分が何を現実として受け入れるかによって決まるのである。

映画やドラマ、テレビの中の出来事を現実とを混同したら正常な判断はできなくなる。
しかし、映画やドラマ、テレビの出来事が現実に反映されてもおかしくない。
それは映画やドラマ、テレビは、何らかの精神世界を反映しており、示唆や教訓に満ちているからである。

神話が何を意味しているか否か重大なのである。
神話的な出来事が物質的な世界で起きえないからと言って神話を否定するのは馬鹿げている。

ノアの大洪水もそのもの語りが何を意味し、何を象徴し、何を教えようとしているかが問題なのであり、
実際に何が起こったかが問題なのではない。
真実は心の中にあるのである。

神話や聖書は仮想現実の中にある。
物理的世界で証明されないとしても不思議はない。と言うよりも当然である。
なぜならば、精神世界と物質的世界は次元を異にしているからである。
精神世界の出来事である神話や聖書で重要なのは、象徴と構造である。

神話は、人々の記憶や伝承が積み重ねって形成された物語である。
それを現実的でないと否定する必要はない。
大切なのは、先人達の教えであり、意図である。

神話や聖書を単なる迷信や空想と片付けるのは間違いである。
神話や聖書は精神的事実であり。
重要なのは、神話や聖書が何を伝えようとしているかである。
何を象徴しているかである。

聖書の中の出来事を、あながち、非科学的よと否定してしまうのも過ちである。
科学と言ったところで、仮説に過ぎないのであるし、
死後の世界や生命の神秘、世界の始まりといった事は解明されてはいないのである。
人は、いくら医学が進歩しても、生病老死の四苦から逃れることはできない。

我々が物語を聞く時、それをフィクションとしてのみ受け止めるであろうか。
物語を一字一句正確な事柄として信じている人がいるとしたらかなりのお人好しである。
現実を写実的にいくら描いたと言っても創作は創作なのである。
神話も又創作である。創作であるが故に、真なのである。

理想を非現実的だと退けていたら、正義は行われなくなる。
世の中が理想とかけ離れていればいるほど、理想は必要とされるのである。
夢は夢なるが故に実現しようとする意志が強くなる。
それを、非現実的と一切を否定してしまったら生きる真実をも否定する事になる。

聖書も神話も精神世界の出来事だからこそ真実なのである。

現代人の多くは、科学は万能であり、
宗教は、迷信であり、神話は虚構だと思い込んでいる。
しかし、科学も、又、人が生み出した仮想現実の一つにすぎないのである。

そしてまた、仮想現実である科学も、又、神話を生み出そうとしている。
科学を絶対視するのは愚かである。
それも又幻想の一つである。

講釈師、見てきたような嘘をつきと言われるが、科学者も講釈師のようなところがある。
科学的に立証できたからと言ってそれが絶対だとは言い切れない。
大体、科学は、絶対的認識という事を前提としていない。
ビッグバンも、進化論も仮説の域を出ないのである。
仮想現実の中にある。
つまり、一種の神話のような事である。
唯物史観だって神話の一種に過ぎない。
絶対普遍と言い出せば、その時から神話に変質するのである。

宗教と科学とを対立的に捉える人達がいるが、必ずしも、宗教と科学は対立的な事ではない。
科学者の多くは、神話や聖書の出来事から出発しているのである。
ニュートンだってデカルトだってノアの洪水を科学的に立証しようとしたくらいである。
自然界の神秘に対する探究心は、神に対する畏敬の念があって成り立っている。
科学を切り拓いた多くの科学者は、神話的出来事を立証しようとして科学への道を歩み出したのである。
科学者を無神論者と決めつけるのは短絡的である。
そして、この神との関係が科学の発達や基礎に重要な働きをしているのである。
それは精神世界と物質世界とを結びつけようとする意図において重要なのである。

欧米の科学はつい最近までキリスト教的ドグマによって支配されていた。
例えば、地球の起源が一億年を上回らないという思想が支配的だった。この様な宗教的ドグマから解放されるのは、第二次世界大戦後である。それまでは、世界の歴史を無理矢理この普遍史の中に押し込もうという努力が続けられていた。しかし、第二次世界大戦後でもモンキー裁判が続けられ。
最近ノアという映画を見たが、ノアもこの延長線上で見ると違った見方ができる。
欧米の根底には聖書と自然科学との葛藤が色濃く影を落としている。しかし、一見矛盾しているように見えるこの葛藤こそが近代科学に活力を与えているのである。
我々は今という時間を普遍化してしまうから、その背後にある時間というのをともすると見落としている。
そして、今という時間を絶対化してしまうが、世の中は今も変化し続けているのである。
そして、神話も変化し続けている。
古い神話は捨てられ、新たな神話が生まれているのである。

歴史は常に新たな神話や伝説を作り続けている。
所謂、歴史問題も、日本人は、私的レベルの問題なのか公的レベルの問題なのか、歴史か普遍か、その根本を曖昧なままにしているから問題の整理がつかず、ズルズルと底なし沼に嵌まり込んでいるのである。

科学の発達と聖書の解釈というのは切っても切れない程、深く関係している。
キリスト教の聖書は、近代科学に重大な影響を及ぼしている。
それは、統一、絶対なる存在を前提とする事によって、この世の現象を唯一の世界、空間に統一することを可能としていることである。

結局、欧米において民主主義が確立されたのも、自己を超越する唯一の存在、絶対なる存在を前提とする事が可能だからである。
さもないと神の存在を相対化し、否定し、自らを神にしてしまう。
そして、権力者が自分を絶対化した時、民主主義は滅びるのである。

何十億年昔であろうと、昨日の出来事であろうと戻ることのできない世界であるという事は共通している。
タイムマシーンで過去へ行くのも神話なのである。
だから、それを現実とするならば、それはそう信じる者にとっては現実なのである。
信じていない者にとってどうでも良いことなのである。
信じる者にとって何を信じるかが重要であり、信じない者にとってどうでも良いことならば、
神話的出来事が実際にあったかどうかなどいずれにしても重要なことではない。
神話が何を意味しているかが重要なのである。

何が唯一で絶対なのか、それは神と自己存在をおいて他にない。
神と自己の存在を絶対とするからこの世は統一的な世界を現出しているのである。
神が唯一で、絶対だからこそ人は救われるのである。





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