2013年10月23日 11:07:32

神について思う

学ぶという事



私は、日大の理工学部の物理科に学んだ。
ガイダンスの時、担当の教授が学生に向かって、我々は、万骨枯るる会を形成しているんだと言われた。
物理学は、三十代で終わる。
一人の有為な人材を世に出すために、我々は枯れて腐植土となるそういう覚悟で自分達は生徒に接している。
そう言われ、又、その後もその言葉を実践されていた。

力があると先生が認められれば、例え相手が、後輩や生徒でも敬語で接する、そんな姿勢が、物理学の教授にはある。
実力が全ての世界なのである。
そんな環境にいると誰もが人に対して謙虚になれる。
物理学者が対象としているのは、自然であり、自然の神秘や大きさを前にしたら人間の存在なんてちっぽけに見えるからである。
物理学を学ぶ者は、科学は万能だなんて思い上がった考え方はしてないし、できない。
原子爆弾の開発に関わった多くの科学者は、その後、贖罪のために奔走しているのである。
科学者の奢りこそ人間の愚かさの証なのである。

学ぶというのは、互いに相手を認め尊敬し合うところにある。

私は、基本的に先生という言葉を使わない。
先生、先生と言われる馬鹿はなしとも言われる。
先生と呼ばれる商売というのは、碌なものはない。

学校の先生、医者、政治家、弁護士等がある。

自分は、師と呼ばれる事で驕り高ぶってしまう気がする。
故に、自分に対しても先生という言葉は使わせない。

私にとって真に師と呼べるのは、神のみである。

だから逆に、人は皆、師、人は皆で師とも言える。
自分は完全にはなれない。完全無欠なのは神のみである。
どんな人にも自分より優れたところがあり、また、必ず自分にも人より優れたところかある。
だから、人から優れたところを学び、劣ったところを補う事としている。

人は、自分より力の下の者をランク付けする事はできるが、自分より力の上の者をランク付けする事はできない。
勢い、学歴とか、肩書きと言った外形的なところで判断する。
でも、私には外形的な事は意味がない。
意味があるのは学ぼうという姿勢である。
実際の処、力の差などよくわからない。
思い込みに過ぎない。

自分の息子と接していて親子で学び合う問いのは難しいなと思う。
師は、自分で選べるが、親は自分で選べないからである。
親は師である前に保護者である。
何の権威もない私は、息子にとって、
有り体に言えばただのおっさんにしかすぎないからである。

自分は父にいろんな事を教わったけれど、息子は自分から何かを学ぼうとする意志はなさそうである。
それはそれで仕方がない事である。
時代も変わった。

最初から批判的で、否定的では、学ぶ事も教える事もできない。

親と子は実際難しい。
だから昔は孝という思想で縛ったのかもしれない。
しかし、子からして本当に尊敬できる親など少ないのかもしれない。

家内は、いろいろなセミナーや講習会に行く。そこの先生や講師は、常に私より偉い。実力も上だと思っている。
そういう事は、息子にも影響する。
私は、どんな人も学ぶという一点において対等だと思う。
そうでなければ共に学ぶ事はできない。
学ぶためにはあらゆる虚飾を取り除かなければならないからである。
どちらが上でどちらが、下かなどという事を言い出したらきりがなくなる。
学びたければ、自分が学べればいいのである。

私は、神のみを師としている。
この世の権威を認めない。
認めてしまえば、学ぶ事がなくなってしまう。

学歴とか、肩書きなど私にとって無意味である。
虚心坦懐に真理を求める者は皆同志である。
それだけでいい。

神を師とするから、互いを師とし、互いを弟子とする事ができる。
だから、私は、互いに高めあい、尊敬し合い、認め合う事ができると思っている。

しかし、妻子は、こういう自分を身の程も知らず思い上がっているようにしか見えないのであろう。

私にとって師といい、弟子というのは、同じ志を持ってお互いを認め、尊敬し合う者達なのである。
しかし、人を師とするのは仮ににすぎない。
私は神のみを真の師とするのである。
神の前に、人は、等しく学徒なのである。
学び、学びて、己の未熟を知る。
それが学ぶという事である。





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