2013年10月23日 11:07:32

神について思う

罪と罰
酒、煙草、麻薬、痴漢、不倫、売春、賭博、飽食、詐欺、暴行、強姦、脅迫、窃盗、強盗、殺人、監禁、嘘。


酒、煙草、麻薬、痴漢、不倫、売春、賭博、飽食、詐欺、暴行、強姦、脅迫、窃盗、強盗、殺人、監禁、嘘。

犯罪は、一人では成り立たない、必ず、相手がいる。故に、自分の意志だけか問題なのではない。相手の意志も問題なのである。加害者がいれば、必ず被害者がいる。被害者がいれば必ず加害者がいる。
犯罪は、基本的に人と人との関係上において成り立っている事象である。

それに対して罪は、自己と神との関係上に成り立っている事象である。
故に、犯罪は、和解を前提としているが、罪には和解はない。
罪は、懺悔、告白、贖罪、救済からなる。
懺悔とは、自分の過ちを認め、告白し、贖罪、即ち、悔い改め。神の許しを受けるのである。

絶対的神を前提としていない日本人は、罪と罰という観念は希薄である。

日本人は、相手が許してくれれば、それで罪は許されたと勝手に決めつける傾向がある。
日本人には、水に流すという風習がある。しかし、その考え方が何処にでも通用すると思ったら大間違いである。
水に流してくれない。水に流せないことが世界には多くある。
第一に、罪は、人と人との間に成り立っていることではなく。
人と神との間で成り立ていることだからである。
本心から悔い改めないかぎり、罪は許されない。

いわゆる従軍慰安婦問題などが典型である。
先ず、日本人は、この問題と正面から向き合う必要がある。
歴史的な問題という以前に人道的な問題なのである。
かといって政治的に利用する類いの事でもない。
人としてどう考えるかの問題である。
それは、単純に歴史的な問題という範疇で考えるべき問題ではない。
性暴力をどう考えるかの問題であってその他のことは二義的問題なのである。
現在議論していることは二義的な問題に囚われているように思える。
だから、解決の糸口がつかめないのである。

前提としなければならないのは、現在の日本では、公娼制度は認められていないし、また、売春そのものを犯罪としている点である。

酒や煙草、博打と売春は何処が違うのか。
酒や煙草、博打のような個人の嗜好を犯罪とするのは妥当な事なのかという議論がある。
つまり、酒や煙草、博打は自己責任の問題だというのである。

では酒や煙草、博打と売春は何処が違うのか。
売春には、人身売買、性的暴力、性差別、人権問題が関係してくるという点である。
この点こそが慰安婦問題の本質でもある。
韓国と日本では慰安婦問題は外交問題だが、
慰安婦問題は他国の問題である以上に自国の問題でもあるのである。

国が関与しているか否かという以前に一人の人間としてさえ生きる事さえ許されないような制度が存在した事自体が問題なのである。
その点を真摯に受け止めないかぎり、日本人は、従軍慰安婦の問題と正面から向き合う事はできない。
存在そのものを否定するような環境を人為的に作ることは罪である。
最初から人として生きられないような環境を作る事は、存在を否定するような行為である。

国が関わってきたか、否かという以前に、性暴力の被害者がいたという事実をどう考えるかの問題である。
非人道的な環境を容認した時点で罪は免れない。
問題はそれをどう贖うかである。

この様な問題を政治問題化することも又罪である。

奴隷制度を例にとって考えれば、奴隷制度を否として制度をなくした場合、奴隷制度は、否定したとしても奴隷的身分にあった人、総てを保証する事は事実上不可能である。況や、その子孫まで保証するというのは、非現実的である。だから、時効の問題もある。歴史的として過去をさかのぼったら、有史以来の事総てを保証しなければならなくなる。
故に、人道的立場に立って奴隷的境遇にあった人達を支援、援助し、かつ又、人種差別をなくすための施策をとる。それが人道的な立場に立つという事だと私は、考える。
従軍慰安婦の問題に関しては、国の関与の有無に対する議論とは、別に、人道的立場に立って国家賠償とか、保証という事ではなく。人道支援、援助という形で、従軍慰安婦として苦しんだ人達を支援、援助をする。更に、戦争被害に遭った女性や子供達を支援、援助をすると共に、戦時下における女性や子供、老人と言った社会的弱者の保護に国家的に取り組み。又、従軍慰安婦という問題に留まらず世界的問題に対して支援活動をするという事だと考えます。そのために、必要な組織や機関を設立し、施設や基金を設定し、或いは国会で講演、演説、学習、又、国民、又、世界で啓蒙活動をする事だと思う。
歴史的問題に囚われると平行線をたどり政治問題化する危険性が高いと思います。歴史的問題としてではなく、普遍的問題として未来志向で取り組む事が肝要だと考える。

日本人は贖罪して済んだと言い張っても、
相手が日本の罪と考えたならば、相手は、日本が懺悔し、告白し、悔い改めないと救済はないと考えているのである。
そうなると何処で折り合いを付けるかが問題となる。

この問題は歴史の問題と言うより人道上の問題でもある。
要は、売春という行為をどう考えるかであり、公娼制度をどう考えるかである。
それは人間の生き方の問題でもある。

問題は、罪なのか。犯罪なのかである。
犯罪ならば人と人との関係によって解決されなければならないし、罪ならば、内面の問題が深く関わっている事となり、単純には割り切れない。根源的な部分までさかのぼって考える必要がある。

犯罪を考える上で重要なのは意志の問題である。自分の意志に反した行為を強要する力が暴力である。暴力によって公共の利益や個人の意志に反する事象を強制する事が犯罪なのである。
戦争の犯罪性がそこにある。戦争行為は、日常的空間では犯罪である。例えば殺人は、平和時においては犯罪として裁かれる行為である。しかし、戦場においては英雄行為である。
戦争とは、一般には犯罪が強要される状態だと言える。そうなると暴力的行為の歯止めが失われる。
戦争犯罪の罪を敗戦国ばかりに負わせていたら、戦争の犯罪性を糾す事はできない。

注意しなければならないのは、自分の意志に反する行為を強要される事自体が、犯罪だというわけではないという事である。
社会生活では、自分の意志に反する行為を強要される事は日常茶飯事である。自分の意志に反する事を強要される行為を全て犯罪とされたら社会は成り立たなくなる。国家そのものが犯罪的存在になってしまう。
暴力によって公共の利益を損じる行為を犯罪というのである。そして、法治国家、国民国家では、公式の公共の利益とは、合意や社会契約に基づく法に定めて事を言うのである。それが法治国家の原則である。

売春を考える時、相互の合意に基づく行為だから法的に取り締まる必要はないという考え方もある。しかし、売春の背後には経済的な理由が隠されている場合が多数見受けられる。又、経済的理由によって心ならずも売春をせざるを得ない人間が少なからずいるとしたら、それは間接的とはいえ意志に反した行為を強要されているのと変わりはないのである。
だとしたら法によって売春を規制する根拠となり得る。

犯罪は歴史的行為ではなく。普遍的問題である。
奴隷制度を例にとって考えれば、奴隷制度を否として制度をなくした場合、奴隷制度は、否定したとしても奴隷的身分にあった人、総てを保証する事は事実上不可能である。況や、その子孫まで保証するというのは、非現実的である。だから、時効の問題もある。歴史的として過去をさかのぼったら、有史以来の事総てを保証しなければならなくなる。
故に、人道的立場に立って奴隷的境遇にあった人達を支援、援助し、かつ又、人種差別をなくすための施策をとる。それが人道的な立場に立つという事だと私は、考える。
戦争被害に遭った女性や子供達を支援、援助をすると共に、戦時下における女性や子供、老人と言った社会的弱者の保護に国家的に取り組む必要がある。
歴史的問題に囚われると平行線をたどり政治問題化する危険性が高い。歴史的問題としてではなく、普遍的問題として未来志向で取り組む事が肝要だと考えます。
政治は妥協の産物です。妥協点を探し求める事が政治の役割です。妥協点を見いだせなければ、結局暴力的手段でしか解決がつかなくなる。その根底にあるのが、国民感情である。だからこそ、不必要に国民感情を煽り、妥協のない争いに持ち込む事だけは避けなければならないのである。人類は、人類を何百回も滅亡させても有り余るほどの兵器を持っている事を忘れてはならない。

この世の中で最も犯罪的行為は戦争である。

一方的に自分の立場や考え方を主張するだけでは解決にならない。
相手がいる事なのである。かといって一方的に相手の言い分を聞いても今度はこちらが収まらなくなる。
お互いに何を罪と考え、何を罰と考えているのかが問題となる。

罪は、自己内面の問題である。
逆に言うと罪の意識がない者を罰する事もできない。
だからこそ、救いがなかなか得られないのである。

犯罪の対象は人である。
故に、犯罪においては、人に裁かれ、人に赦しを請う。
罪の対象は自分であり、自己を超越したところに存在する神である。
故に、罪においては、自己に裁かれ、神に赦しを請う事になる。
自己とは、自己の内面の規範である。

自己の内面の規範とは、自己と神との契約の基づく。
罪を基礎とした社会における契約は、神と自己との契約を介したものである。
即ち、人は欺けても絶対的神は欺けない事を前提としている。

故に、一神教とは聖書や聖典の上に手を載せて宣誓した上で発言する。神に対する嘘は罪なのである。

それに対して人と人との契約は、基本的に、人と人との合意に基づいている。
契約を破れば人の法によって裁かれる。
人と人との関係は、相手にばれなければ犯罪にならないし、又、相手との力関係も微妙に影響する。
そのために、法治国家といっても人治国家としての性格を併せ持っている場合が多い。法の絶対性を保つ根拠が希薄なのである。
ただ日本人は、信義を絶対視する傾向があり、これが神に対する契約と同じ働きをしていると思われる。それは日本人社会が狭い限られた空間で成り立ってきたという歴史的背景も作用していると思われる。

神と自己との関係に則った契約は絶対的な拘束力を持つのに対して、人と人との関係に則った契約は相対的な拘束力しか持たない。
そこが日本人の社会と一神教との社会との決定的な違いである。
人と人との関係を基礎とした社会は日本人の社会だけでなく、中国人の社会も人と人との関係を基礎としている。又、唯物論的社会も基本的には、人と人との関係を基礎とした社会だと言える。

従軍慰安婦問題でも出てきた発言だが、他人、他国も同じ事をやっているではないかというのは、意味のない発言である。大切なのは、是々非々の問題であり、悪い事かもしれないが同じ事を他の国もやっているではないかというのは品のない話である。
他人がやっているかどうかは、善悪には関わりのない事であり、悪い事は悪い事なのである。

この様な観点から罪と犯罪とを考えてみたい。

罪も犯罪も罰も人間が作り出すもの。法が犯罪を作るとも言える。では法をなくせばいいというのは極論である。法の目的が大切なのである。目的を失った、或いは、間違った法は危険だ。だから法の根源にある理念、思想の問題となる。法の根源にある理念、思想も相対的であり、絶対ではない。究極に存在するのは神であり、神の許しである。神の存在の対極に自己の存在がある。

酒や煙草は、罪である。
それに対して麻薬は、罪でもあり、現代社会は、犯罪でもある。
酒や煙草は、法律で規制されているわけではない。要は、道徳の問題である。
かつて、酒は禁酒法によって取り締まられた。
この禁酒法というのは、罪に対する法である。この辺のことは、日本人にはなかなか理解できない。なぜ、酒を禁じる必要があるのか。根拠は何かという事を理解するのが難しいのである。日本人は他人に迷惑をかけなければいいではないか。禁止するほどの事ではないと考えがちである。しかし、禁酒を罪とする人にとっては、法的にも取り締まる必要があると感じるのである。
飲酒というのは、相手がいるわけではないからである。
煙草も然りである。煙草は個人の嗜好の問題だが、禁煙という事で、煙草を吸う事が禁じられている場所も存在する。
ただ、必ずしも罰せられるとは限らない。

痴漢はどうか。
痴漢は、相手がいる。また、違法行為でもある。
罪でもあり、犯罪でもある。

痴漢行為の実害は何かと言えば、痴漢をされた者の心理や感情的な事だと思われる。
しかし、問題はそんなに単純ではない。
もっと根本的な罪の問題をはらんでいる。
人としての理性や自制心をどう考えるか。それは犯罪を規定する上で重要な要素である。
同時にそれは罪と犯罪をどう捉えるかの問題でもある。
痴漢というのは犯罪と言うよりも罪である要素の方が強い。

売春はどうか。
売春という行為の背後には、自由意志に基づくか否かの議論がある。
しかし、もっと根本的な問題は、貧困と貧困に基づく人身売買の問題が隠されている事である。
自由意志であるか否かというのが表面的、上っ面の議論になりがちなのは、遊ぶ金ほしさと言った動機に基づくとしてもその様な動機に至った社会的背景や境遇という問題抜きに話は進められないという事である。
売春という行為は、女性にとって破滅的な行為であり、社会的にも差別や犯罪の温床にもなる。
表面は自発的と取り繕ってもなぜその様な行為をとらせたのかの答にはならない。
又、表面の理由はどうあれ。結果的には、貧困による人身売買や幼児虐待といった問題をはらんでいるのである。
自分で判断が下せない年頃に金銭的理由で売春行為に及んだ場合、それを自由意志に基づくと言い切れるであろうか。
単純に自分の意志でと言うだけで片付けるには深刻な背景をはらんでいるのである。

犯罪や罪を考える場合、その犯罪や罪を成り立たせている前提が問題なのである。
売春という行為を考える場合、この点抜きに売春婦を堕落者として侮蔑する訳にはいかない。

人は、自分の立場で、物事の基準を構成する。
男であり、黄色人種である私も、例外ではない。
この前提をよくよく確認した上で、自分の考えを主張し、又、検証する必要がある。

この世の中は、暴力によって支配されている。この事を忘れてはならない。国家も例外ではない。国家権力は、国民の力が弱まれば、本来、国家が保護しなければならない国民や女子供、高齢者、障害者と言った弱者に暴力をふるう事もある。それ故に、国家を国民の監視の下におくという思想が国民国家を成立させたのである。
国家というのは、不当な暴力から国民を守るための暴力装置なのである。

その前提に立った上で公娼制度や売春という事を考える必要がある。
売春は、最も古典的な仕事だと言われている。
売春は古くて新しい問題である。

売春は、特定の国や特定の時代にのみ限定的に現れる現象ではない。
普遍的問題である。
そして、性に対する暴力的な側面が常に隠されているのである。

その暴力的な側面をみずに、自分の意志で売春をしていると決めつける事は早計である。
強要されているか否かという問題以前に前提となる状況を確認する必要がある。

大体、未成年、未成年どころか十歳にも満たない少女が客を取らされていたとなれば、それを自由意志に依るか、依らないかなどと議論する事自体犯罪行為である。
売春行為で問題となるのは、売春行為が結局、人身売買に相当する行為だという点にある。
人身売買に相当するという点を抜きに売春を正当化する理由があったとしても、人身売買だという点において何ら妥当性も説得力も持ちえないのである。
それ自体が不当な暴力なのである。

戦争による性暴力は国家の暴力性がむき出しになった状態で起こるために、悲惨である。
抑制がない。
だからこそ許してはならないのである。

戦争は、最も国家を凶暴にする。
戦争は、国家の暴力性を最も発揮させるからである。

嘘は罪である。
嘘の上に成り立つ犯罪の本質は罪である
例えば、詐欺、ペテンのように人の善意につけ込む嘘は罪が深い。

常に、人間如何にあるべきかの、生きるべきかの問題が潜んでいる事を忘れてはならない。


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