2013年10月23日 11:07:32

神について思う

修   身
評伝、イソップ、寓話に学ぶ


かつては、人の道は明らかであった。
故に、学問の目的は、明らかであった。
即ち、人の道を究め、実践することにある。

そこには迷いがない。
迷いがないから貫くことができた。
今は、価値観が揺らいでいる。

特に、東洋では、宗教的と言うよりも人倫の基礎として儒教や道教によって確立されていた。

近代に入ってこの人の道が揺るがされ、失われてきた。
その理由が封建的だという事である。

そして、それまでの訓詁主義的価値観が捨てられ進化論を基礎とした進歩主義や功利主義が行動規範の根底を形成するようになる。
進歩主義は、適者生存も生存競争を進化を絶対的原理とし、進歩、即ち、変化を前提として行動規範が形成されていく。
つまり、進化を道徳の基盤とし、その上に、個人主義も功利主義的倫理観を打ち立てる事よって成り立っている。

進化論の基礎は科学主義である。
科学主義の背景には、相対主義や万物流転の考え方が潜んでいる。

この様な考え方によると変化こそ絶対であり、故に、価値観も日々揺れ動き、変わっていくことだとされる。
そうなると変化や進歩が絶対視される。
技術革新や成長のみを追求することとなる。
今日の様に技術革新が激しいとその変化について行けない者もでる。
特に、高齢者と若年層とを競わせたら新しい技術や知識を習得する時間は、圧倒的に若い者の方が強い。
そうなると、高齢者は、若年層に軽んじられる風潮を増長する。
家庭では、子は親を見下す傾向が強くなる。
技能だけで言えば時代の変化について行けない親を子は容易に追い越してしまう。
相手を認めなければ親子でも学ぶ事も教える事もなくなる。
一度、親を見下せば、自分が親を見下していることにも気がつかなくなる。
特に、家庭に不在がちな父親の存在感などなくなってしまうのは容易に察しがつく。
その様な状態で老後の親の面倒を見ろというのは無理がある。
結局、施設に入れろという事になるのである。
そうなると介護というのは道徳の問題ではなくなる。
純粋に経済の問題である。

事の成否善悪美醜に新旧老若男女の別はない。
人としての経験や知識は、年寄りの方が多くを蓄積していることに変わりはない。

修身とは、評価の定まって手本となる人々の人生やエピソードを学ぶ事である。
だからこそ修身を学ぶ必要がある。
身を修めることを学ぶ必要があるのである。

手本となる者、或いは、事象は成功者、成功に限定する必要はない。失敗者、失敗からも学ぶ必要がある。

かつては、学問と言えば、身の処し方。身の修め方を指していった。
今は、技術や能力を高めることばかりを言う。
学ぶとしても処世術ばかりである。
生き方というのは学ぶ必要がないとされてしまった。
しかし、本来学問というのは、真理を探究し、生き方を修めることを言う。
今の学問は、真理も生き方も無縁である。

身を修め、真理を探究すると言うのは、その国の文化に根ざしている。
その国の寓話や伝承を通じて引き継がれてきた考え方が基本にある。
寓話や説話を甘く考えるべきではない。

欧米人の考え方には、聖書やイソップなどの寓話や逸話が隠されている。
日本人は、落語、漫才、講談、浪曲、演歌、歌舞伎、能、説教などを通して学んだのである。
最近は、映画や漫画、ゲームなどから生き様を学んでいる。

人は、自分の身近な体験から生き様を学ぶのである。

軍国主義的な要素がないわけではないが修身の本来の主旨からすれば外れている。
むしろ、修身と軍国主義とを結びつけることには土台無理がある。
元々は、人のあり方生き方の問題なのである。

重要なことは、修身の持つ本来の精神が失われ、軍国主義や国粋主義に利用されたことである。
ならば修身本来の主旨に立ち戻り、リンカーン、ナイチンゲール等、自由や民主主義に関わる人達や二宮金次郎、上杉鷹山、山田方谷等の票田から学ぶべきなのである。






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