2013年10月23日 11:07:32

神について思う

神を信じるという事は


前もお話ししたようにこの世のすべては自分の鏡だと私は思っています。
自分の顔は、鏡を通してでしか、直接、見ることのできない唯一の顔です。

所詮、最後はただ一人、裸で神の前に立たされるのです。
私は、そう思っています。

自分を認めない者は、学ぶにせよ、教えるにせよ。できません。
例え、妻であろうと子であろうと自分を認めぬ者から学ぶことも教えることもできません。

しかし、相手に俺を認めろと強要することはできません。
変えられるのは自分しかありません。
ならば先ず相手を認める事だと私は思います。

かつて、修行者は師を求めて遍歴しました。
今の学校は、先生を選べません。

そこには真の教育はありません。
何を学べというのでしょうね。

相手を認め、尊重しないかぎり、学ぶことも、教わることもできない。
傍で見れば、どれ程、力のある物理学者もただのオッサンでしかない。
見ようによっては、世間知らずで、駄目親父の典型なのかもしれない。
世間一般の基準から見ると変人奇人の類いが多い。

親子でも駄目だ。
親子なら尚更駄目だ。

多くの物理学者は純真無垢なる魂を持っている。
だから、専門以外は子供のような人が多い。
それだけを見ていたらその人の力の本質は見えてこない。

学ぶことは、ある意味で平等である。
どちらが上で、どちらが下か等に頓着している暇はない。

生徒は神の前に平等なのである。
師も弟子もともに学ぶ。
師は弟子に学び、教える。
弟子は、師に学び教える。

だから、ブッタだって、イエスだって、ムハンマドだって、孔子だって問答が基本である。
車座になってそれぞれの所信を述べる。
それが神の前の平等である。
自由に議論できる状況がある。


以前に、お話ししたようにこの世のすべては自分の鏡だと私は思っています。
自分の顔は、鏡を通してでしか、直接、見ることのできない唯一の顔です。

所詮、最後はただ一人、裸で神の前に立たされるのです。
私は、そう思っています。

自分を認めない者は、学ぶにせよ、教えるにせよ。できません。
例え、妻であろうと子であろうと自分を認めぬ者から学ぶことも教えることもできません。

しかし、相手に俺を認めろと強要することはできません。
変えられるのは自分しかありません。
ならば先ず相手を認める事だと私は思います。

かつて、修行者は師を求めて遍歴しました。
今の学校は、先生を選べません。

そこには真の教育はありません。
何を学べというのでしょうね。


相手の態度は、自分を映していると言うけれど、
反省ばかりをしてはいられない。

私が思うことは、相手が怒ろうと泣こうとそれが是非善悪の基準にはならないという事です。
友が間違った道へ進もうとしていると自分が感じたならば、
友情を賭けて私は友を殴ります。
相手が怒ろうと嘆こうとです。
殴った瞬間、友でなくなるかもしれませんが、殴らなければ、既に友ではないからです。

しかし、友が間違っているかどうかは最終的には自分の判断に基づくしかありません。
何が正しくて何が間違っているか、それは全身全霊で自問自答して断じなければなりません。
私にとって鏡になるというのは、結局己との戦いに過ぎません。

生きるという事は、気魄です。


学生時代。
学園紛争も頓挫して、大学は荒廃していた。
何人も、何人も、自分は見てきました。
リストカットした奴とか、精神的に追い詰められた者とか、
ギリギリの中で皆、何日も何日も徹夜で血を吐くように議論し続けてきました。

真夜中に終電もないのに飛び出していったり、
今でもあの時代を引きずっている奴が何人もいます。

そして、今又、新しい時代が始まろうとしています。
あの時代の何もかもか否定されるかのようにです。

何が正しくて、何が間違っているのか。
反戦、反権力、反体制。
ビートルズに、フォークソング。

しかし、あの時代の価値観が又崩れようとしています。

ともに過ごした仲間達は、今、何を信じて、何処へ行こうとしているのか。
しかし、もう迷っている時間はなさそうです。

この時、この一瞬に全身全霊で生きていく意外にないとを私は考えます。

 己を知るというのは、それまでの自分を否定する事の連続である。



事実は、認識の問題であるが、真実は、存在の問題である。
事実は、あると言えばあるし、ないと言えばない。
真実は人は助け合って、或いは、助け合わなければ、解決できない深刻な問題が山積されているという事である。
それが神の意志である。真実にこそ神の意志が隠されている。

人が滅んだとしてもそれは神故ではない。人の愚かさ故である。
神は、救いを求めぬ者を救いはしない。なぜならば、救いを求めぬ者を救いようがないからである。あの大学闘争時代。
何人も、何人も、自分は見てきました。
リストカットした奴とか、精神的に追い詰められた者とか、
闘争にのめり込んでいった奴、それこそオームとか、統一教会とか、
ギリギリの中で皆、何日も何日も徹夜で血を吐くように議論し続けてきました。

真夜中に終電もないのに飛び出していったり、
今でもあの時代を引きずっている奴が何人もいます。

そして、今又、新しい時代が始まろうとしています。
あの時代の何もかもか否定されるかのようにです。

何が正しくて、何が間違っているのか。
反戦、反権力、反体制、ビートルズ、フォークソング。

しかし、あの時の価値観が又崩れようとしています。
何を信じて、何処へ行こうとしているのか。
しかももう迷っている時間はなさそうです。

このとき、この一瞬に全身全霊で生きていく意外にないとを私は考えます。

事実は、認識の問題であるが、真実は、存在の問題です。
事実は、あると言えばあるし、ないと言えばない。
真実は人は助け合って、或いは、助け合わなければ、解決できない深刻な問題が山積されているという事です。
それが神の意志である。真実にこそ神の意志が隠されている。

人が滅んだとしてもそれは神故ではない。人の愚かさ故である。
神は、救いを求めぬ者を救いはしない。なぜならば、救いを求めぬ者を救いようがないからである。

イエスは、あらん限りの憎悪や侮蔑を自分が救おうとしている人類から受け、最後は残虐な十字架上で処刑されるのです。
いくら微笑んでも、慈しんでも、誰一人微笑み返してはくれない。
イエスは、最愛の弟子に向かっても明日の朝、雄鳥が時を刻むまでに三度私をおまえは否定するだろうというのですね。
ただひたすらに神を信じてですよ。
善も悪も超越して。
そしてそれでも、微笑めというのですよ。
それでも尚人々を救済しようとするのですね。
それが、キリスト教精神です。
それがキリスト者ですよ。
恐ろしいほどの迫力ですね。
凄まじい。
だから、彼等は、何もない時代に大海原を越えて未開な土地へも布教に出かけたのです。
私は、マザーテレサのような方にも同様な凄みを感じます。
今でも、イエスは十字架上に居られる。
キリスト教徒は、イエスを十字架から下ろそうとはしない。




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