2013年10月23日 11:07:32

神について思う

違いがわかる



男と女は違う。
男と女の違いがわからないとしたら
それこそ異常だ。

男と女を差別しないという事と、男と女の違いがわからないという事は別である。

違いを認めた上に平等は成り立っている。
違いを認めずに同等に扱うことは平等ではない。
違いは、認識の問題であり、平等は存在の問題である。

教育上、男らしく、女らしくて言えないのが、凄くネックなんですね。

男と女の違いを言ってはならないなんて誰が決めたんですかね。
男と女は違いますよ。
違いは違いとして認めるかにこそ平等にも公平にもできるのでしょ。
スポーツの世界で男と女の壁を取り除いたら
本当に、平等、公平が成り立つと思っているんですかね。
馬鹿げていますよ。
確かに、いわれなき差別はなくすべきです。
しかし、男と女の差を認めないとしたらそれこそ差別ですよ。

脳科学者は、恋愛とか、夢とかなんて脳の生理的現象だなんて説明するけれど・・・。

男は男、女は女。
だから歌が生まれて、小説もできる。
脳の生理的現象だけで生きているわけではありませんよ。
くだらない意地だの義理だの愛憎だの。
そこにドラマがあり、浪漫があるんじゃあないですか。

なぜ、踊るのかって、そんなことは解らりません。
でも踊る阿呆に見る阿呆。
同じ阿呆なら踊らにゃ損々ですよ。

男と女だって違いがあるから、面白い。
人間が機械製品みたいに同じだったら、面白くも何ともない。

そこに神様の偉大さがある。

出来損ないがいたっていい。
出来損ないだって幸せになる権利はある。

偉大な人達の中には、所謂、一般的に見て出来損ないと言われる人間はいくらでもいる。
だからどうだというのだ。

所詮、自分で、自分の人生に、責任の持てないような生き方をすべきではない。
なぜなら、人は皆違うのだから。

違いのわかる人間になれ。

男と女。

男女同権が叫ばれて、久しい。
男女同権というのは、男と女を同等に扱えば、良いと言うことを意味しているのではない。
それこそ、男女同権というのは、男と女の違いを前提として成り立っている思想である。

男女同権が叫ばれた背景には、男は良くて、女は駄目だという思想がある。
最初から男と女に優劣を付けていることが問題なのである。
男と女という性別がある。
この事実を所与の前提とし、男と女は違うという認識に基づいて男と女が公平な権利を持つためにはどうしたらいいかが、男女同権の本旨である。

男と女、どちらが優れているかって馬鹿な質問だ。
神は、善悪も、優劣も越えた存在。
神は、人間の肉体の部位に優劣なんか付けたりはしない。
頭が肛門より偉いなんて馬鹿げた発想。
神はそんな事を言ったりはしない。
綺麗とか汚いというのは、人間の意識が作り出した事。

最初から男が優秀で女は劣等だと決めてかかることが悪いのである。
だから、男女同権を話す時、男と女どちらが優秀かという議論がついて回る。
そこから、話し始めれば、最初から話がずれていくのである。

男尊女卑。馬鹿げている。
神とは、無縁の話である。
神は、男も女も等しく作られた。
それが神の前の平等である。
男は死なないとか、何も食べなくても生きていけるとか、金のウンコをするなんて事はない。
男も女も生病老死の宿命を等しく背負っている。

結局、男は優秀で女は劣等だという考え方がどこかで社会に浸透し、その影響が、あらゆる分野にまで及んだことは、人の犯した過ちであっても、神の過ちではない。
確かに、男尊女卑的な思想は、一掃されるべきである。
だからといって女は優秀で、男は駄目だと決めつけたら、結局、同じ穴の狢(むじな)になってしまう。
しかし、男と女が違うのも又事実。

男女同権を男尊女卑の結果として捉えたら、男女同権の真の意味は見失われる。
男尊女卑によって男の仕事女の仕事が明確に区分され、仕事そのものにまで優劣が作られてしまった。
そして、男の立場、女の立場が固定され、男も女も自分の立場に囚われてしまったのである。
この様な状況で、女が男と同じ立場に立とうとすれば、それまで女性が立っていた立場まで総てを否定されることになる。
それは、女性の男性化、同化を意味している。

真の男女同権を言うのならば、男と女それぞれの立場を尊重し、高めあう事でなければならない。

女には、男にできないことがある。
それは、出産と育児である。
これは事実である。
それに対して、男でなければできないという事は、事実上ない。
これも事実である。男がやって来た仕事は、基本的にやろうと思えば女性はできる。
むろん適正の問題はある。

スポーツの世界で男と女の壁を取り外すというのは、今の段階では差別的である。

問題は、出産や育児、掃除、洗濯、料理といった家事全般、そして家政と言った仕事が蔑視されることである。
これらの仕事は、消費労働である。消費の場は家庭である。
つまり、消費労働が蔑視されれば、家庭の場が崩壊してしまう。
現実に、女性の社会進出が促されて家庭が崩壊しつつある。

かつて、女性は太陽だった。
経済は、家庭や母親中心に運営されていた時代があった。
今は、偏った男女同権論によって女性が得意とした分野の仕事場が失われようとしている。
女の仕事が卑下され、蔑まれ、差別されようとしている。

男は、子供を産む事はできない。
この事は決定的な違いである。
子供を産み育てる事は、一大事業である。
人として、命あるものとして最も根源的な仕事である。
その為に、女性は多大な負担、ハンディを負う。
だからこそ、かつては女性を中心にした社会を形成せざるを得なかったのである。
女と子供、それは最優先で護らなければならない対象。
女は弱し、されど、母は強し。
男が戦うのは、
決して女を差別したからではない。守るべき対象だったからである。

男児同権論に依る言葉狩りも盛んである。
差別用語と言うが、言葉に意味はない。
言葉に意味を持たせるのは、意識である。
言葉が、侮蔑的なのではない。
意識が言葉を侮蔑的に捉え、或いは、侮蔑的に使わせているのである。
意識が変わらなければいくら言葉を変えたところで差別はなくならない。
それよりも言葉狩りによる言論弾圧の方が事態はずっと深刻である。

差別は意識が生み出す事である。
根本の認識を改めないかぎり男女同権は実現できない。
男女同権を実現したいならば、男と女の違いを認める事である。

男と女。
お互いの違いを尊重し、認め合うから等しい立場にも立てる。
男と女、何が違い、どう補い合い、助け合うべきなのか。
そこに、愛がある。

最近、父親の居場所がなくなりつつある。
家庭でも、職場でも、父親の居場所がない。
それは母親が父親を蔑視しているからである。

お父さんのようになっては駄目よなんてまだましである。
人間も又動物である。
飼い犬などよく見ている。父親の位置づけが飼い犬如何に犬が見ていることもある。

かつては、父親が子供をガミガミ叱ったものだが、
子供が父親をガミガミ叱る。
母親の姿を見て育っているから父親を尊敬に使用なんて最初から思っていない。
食事のマナーまでガミガミという。
これでは老後の世話を子供に見てもらいたいなんて思わなくなる。
それ以前に子供は子供で親の面倒を見る気がない。
惚けてきたら施設に入れてしまえばいいと思っている。

偏った男女同権の行き着く先は、孤独、孤独、そして、孤独死である。

学ぶ気があれば、敵にも教えることはあるが、学ぶ気がなければ子供だって何も教えられない。
今の親とこの関係では、親から子へと伝えていくことは何もない。
息子にとって父親は、侮蔑の対象でしかなくなってしまった。
誇りに思ってくれなんて期待しよう見ない。

僕は死んだ父を今でも尊敬している。
それは、自分の誇りの源だからである。
父を誇れなければ、自分の誇りも虚しくなる。

どんな父だって自分にとっては誇りだ。
父を誇れなくなれば、誇りを失う。
誇りを失って家族も崩壊していく。

悲しいね。

かつて、未婚の女性が結構相手として求めたのは、三高。
つまり、高収入、高学歴、背が高い。
今の女性はと言うと四低、つまり、低姿勢、低リスク、低依存、低燃費。こじつけに聞こえないわけではないが、確かに一つの風潮である。
低姿勢というのは、女性に対して低姿勢でなければならない。低リスクというのは、安定性で、公務員やサラリーマンは許せても、自営業者は敬遠される。低依存というのは、なるべく世話がかからない人が良いと言うことで、低燃費と来たら少ない小遣いでなるべく人づきあいのない人という意味らしい。
また、男を見抜く基準は、眼ちから、肌つやに、清潔感だそうだ。
三高、四低どちらにしても、人を外見でしか判断していない。
結局、男を判断する基準は、外見的な基準でしかなくなったみたいだ。

どんな夢を持ち、どんな生き様をし、どんな生き方をしたいのか。
損なことは、ともに生きていく上ではどうでもいい事になってしまったのである。
男らしい生き様、女らしい生き方なんて差別的でしかない。そういうさもしいとらえ方しかできないらしい。
だから、いい男もいい女もいなくなる。
まあ、いい男、いい女の基準も外見でしかなくなったのだから仕方がない。

誇りある生き方、情熱的な生き方、信念のある人など俎上にも上がらない。

我々はいつ、人間である事、生き物である事を捨ててしまったのだ。
脳科学なんてくそ食らえ。
俺は人間なんだ。

男と女。
親と子。
その根本は愛のはずなのに、現代社会では利害関係でしか捉えられない。

愛という言葉は歌の中では盛んに使われるけれど、愛なんて何処にもない社会になってしまった。
だからこそ、人々は、愛に飢え、かつ、渇く。

男と女。
親と子。

そして、愛。



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