2013年10月23日 11:07:32

神について思う

頑張る





頑張るは、当て字で、
我を張るか、眼張るかなんですよね。
やっぱり我なんですよ。

だから結局、我がなければ頑張れない。

我というのは、自我とか、自説ですよね。
だから、普段はどちらかというとマイナスな使い方をしますよね。
でもいざとなると我を張れ何ですね。
こういうとこが日本人的な気がします。

そう考えると他人から言われて頑張るというのはおかしいんですよね。
元々我を張るんですから、他人が何を言おうと頑張ってしまうことですよね。
だから、現状維持も、自分がいいんだと思うと頑張っちゃうんですか。

安直に、頑張れ、頑張れというのは、考えてみればおかしいですよね。
我を張るというのは、他人が頑張れ、頑張れといっても厭なものは厭だという事ですからね。
先生のような仕事をされている方が生徒さんに頑張れ頑張れというのは、
言い換えると我を張れ、我を張れですからね。

もう一つは我慢我慢ですね。
どんなに辛くても我慢して、我慢して自分の信念を貫く。

ですから、僕は、頑張れというのは外人がよくわからない。つまり、日本人的な発想ですね。
外人から見たら、一体何を頑張るのか。
頑張るってどういう意味だという事になるんじゃあないですか。
我という概念が解りにくいですから。

結局、自分で最後まで我慢して我慢してやり抜けと応援している気がしますね。
頑張るの反対は、我を張らないですか。
いわれてみればそうですね。
頑張らなくて良いんだよは、我を張らなくて良いんだよで、
もっと素直になれよ。
他人の意見に従っても良いんだよですね。

何も考えずに頑張れと言ってきましたけど、
頑張らなくて良いと言うのは我慢しなくても良いに繋がって
そうなると頑張れと言った方が良いのか、
頑張らなくて良いと言った方が良いのか微妙ですね。

頑張れという言葉はなかなか意味が深そうですね。

でも、日本人って面白いですよね。
自分もどこかで、頑張るは我を張れという事かなと思ってたんですけど、
普段は我を張るな、我を張るなと言っておきながら
最後は、我を張れ何ですね。
我を張れ。我を張れというのが、日本人なんですね。
我慢、我慢とは違う意味で・・・。

失敗しも良いじゃないか、間違っても良い、欠点があっても良い。
後で頑張れば良い。
でも、後で頑張らなければ駄目だよと叱られた意味が何となくわかってきました。

いつもは我を張るな我を張るなと良いながら
いざというときは、我を張れ、頑張れ。
そして、最後は、頑張らなくて良いよ。
それが日本人なんですね。

頑張れというのは、他人の意見に惑わされずに、自分の意志を貫けという意味ですからね。
普段は、我を張らずに他人の件をよく聞けと言っている癖にですよ。
まあ、それが前提なのでしょうけど、

例えば、皆が反対している中で、一人一生懸命自分の考えを主張している奴なんか見ると表だって応援できないけど、頑張れって声をかけたくなる時がある。
逆にいつまでも意地を張っている奴がいるとそこまで頑張らなくても良いよと言いたくなる。

頑張る問いのは意地を張ると言うのにも繋がると思うんです。
意地という事も、そんなに意地を張らなくてもとか、
意地っ張りて最近は、余りよく使われませんが、
僕らが子供の頃には、俺には俺の意地があるとか、
元気のない人間を意気地なしといって結構、プラスの意味でも使っていたんですよね。
それが、一転して最近は、余り良い意味に使われなくなった。
それも時代的背景の問題ですかね。

知り合いに愛犬をなくした方がいるんですが、
もうその人は、一人住まいで子供のようにその犬を愛していた。
その人が臨終の際に苦しそうなのを見て、もう頑張らなくて良いよって声をかけたそうです。
それから数時間後に息を引き取ったと悲しそうに話してくれました。
そして、頑張らなくて良いよ言わなければ良かったと悔やんでいる。

でも、僕は思います。
自分のために一生懸命生きようとしている愛犬に対して、
もう我を張らずに自分の運命を静かに受け入れなさいと言うのは、
素になって神を受け入れろという事ですよね。
悔やむことではないと思います。

神の前に名はない。
自分は、無名で良い。無名がいいと思っています。
弱点があって言い。多少の劣等感は、励みにこそなり、自分が負けなければ良い。
頑張ることはないのだと思います。

無名で辛いのは、妻子に馬鹿にされることですかね。
今日も息子に馬鹿にされてきました。
家内が僕のことを認めてない、まあ、彼女は否定するけどそれが証拠ですね。

英語もできませんし、剣道も駄目、
息子から見ればだらしない父親なんでしょうね。
経営に関しても家内の方が発展的ですしね。

僕は、人から物を教わるのが下手で、いつも反省しています。
我が強いんですよね。
それで学校の成績も悪くて。
我の強い分劣等感はなかったですね。
その点、家内は、人の話を聞くのが上手いですね。
見習わなくてはと思います。

自分は、不器用ですから、車の運転もせずに来ました。
別にできないというわけではありませんが、
頭を使い続けていると考え事に熱中する危険性がありますので・・・。
無理するより。弱点は弱点にしておいた方が自分にとって戒めになる。
そういう意味では一番の弱点は自分かもしれませんね。
人間は常に不遜になる。
上手く物事が言っている時こそ慢心は忍び寄る。

馬鹿にされたって人を指導できなくなるという事はないと思っていますし。
むしろ、人に侮られた時こそ、人を指導のチャンスとも言えます。
だから、自分に欠点や短所がある事、他人に劣っているところがある事が弱点だとは思いません。
人を指導する時は、過去の失敗や弱点は貴重な参考にもなるし、欠点があれば説得にも実感が籠もる。
だからむしろ長所だと僕思っています。
劣等感だってそうです。劣等感があるから向上心も生まれる。
怖れるべき事は慢心ですね。
慢心すれば神だって侮るようになる。
今の人間がそうです。

家内は、本当に何でもできるんですよ。
感心するけど万能ですね。
それに完全主義。
それでいて自分の弱点や欠点を知っているから、どうしても自分の弱点や欠点を隠したくなって頑張りすぎる。
だけど僕には、それが危うく見える。
頑張らなくても良いよって言いたくなる。
でもそんな事したら湯気立てて怒りますからね。

僕は、自分が無知で無能だと思っていればいいと思っています。
むしろ、無知無能だと思っていた方がいろんな事ができる。
頑張ることはないんですよ。
いざという時に頑張れば良い。
普段は頑張ることはない。
全知全能にはなれませんし、全知全能とは無知無能に通じると私は思います。

最高の指導者というのは、虚心、無心になって学ぶ事だと思っているんです。
学ぶことこそ、最大の自答なんですね。
学んで教え。教えて学ぶ。
総ての人は師であり、総ての人は、弟子である。
神の前に人は皆平等なんです。
息子に、本当にありがとうございますと言えたら最高ですね。

でも心のどこかで息子の誇れる父親になりたいとも思っている。
未練ですかね。
人間って悲しい生き物ですね。
でも、その弱さがまた良しと私は考えている。
始末が悪いですね(笑)

人は鏡。己も鏡。
自分を映す鏡。
人を映す鏡。
互いに相手を認め合い、尊重する。
それが民主主義の根源なんです。

頑張るって意地を張るにも通じますよね。
でもあんまり、頑張りすぎている人を見たら、頑張らなくても良いよって声をかけたくなりますよね。
もう、頑張らなくても良いよ。そんなに我を張らなくても良いよってね。

自分は弱い人間でいいと思っています。
無知無能であっても良い。
人間は神にはなれない。
神になる必要もない。
完全無欠を求めることこそ不遜なことです。
神の前に人は、皆、弟子であり、師である。

人は神を越える必要もないし、神を越えることもできない。
だかにこそ、人生は、喜びに満ち。
楽しい。
人間は全知全能になったら、生きる価値すら見いだせなくなるだろう。

神の感謝、感謝。
人間は素晴らしい。
神は偉大である。

無知、無能、無名だかにこそ人生は楽しめる。
少し、悲しいこともあるけれど。



TOP         Contents         NEXT


このホームページはリンク・フリーです
Since 2014.5.24
本ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.


Copyright(C) 2001 Keiichirou Koyano