2013年10月23日 11:07:32

神について思う

白日の文明




現代文明は白日の文明であると私は思う。
何でもかんでも白日の下にさらさないと気が済まない。

それを科学的合理精神だと錯覚している人が多くいる。

私は、何でもかんでも白日にさらすというか、
説明しなければ気が済まない今の風潮が人間の業に見えて仕方がないです。

それを科学的というのは、間違いですよ。
科学者はそんなことは言っていない。

科学は、解ることは、解る。解らないことは解らないと認める事が前提である。

最近、脳科学が流行っているけど、行き過ぎると総ては脳が作り出しているという事になる。
脳が総てを支配しているような説明がされている。
こうなると、脳科学者にとって脳が神なんですね。
脳が人間を支配しているなんて考える事自体気色が悪い。
漫画や洒落にもなりませんよ。

僕は、脳科学、脳科学って何なんだと思う。
生きるという事は、単なる生理的現象だというのだろうか。
脳科学者の多くは傲慢である。
自分を神だと思っている節がある。

なぜ、何のためにその問いかけに対する究極的な答えはまだでていない。
なぜ、何の為ににと生きているのかの理由は、人間が勝手にこじつけているに過ぎない。

結局、科学が解明したというのは、因果関係に過ぎない。
それで、なんとなく解ったつもりになっているだけです。

生病老死の根本原因は、誰もわかっていない。
要するに解ったつもりになっているだけなんです。
この解ったつもりと言うのがくせ者なのです。

生まれるて、そして、死ぬという事の根本は、科学が進歩したからと言って何も解っていないのです。
それを率直に認めた時、真実の姿が見えてくる。

僕は、神が光ならば、自己は闇だと思うのです。
勘違いしないで下さいね。
闇というのを否定的な意味で使っているわけではありません。
人は闇を怖れるけれど、それは未知なる物に対する本能的怖れであって、
闇の中にこそ謎や神秘の源がある。
明日のことが解らないから生き甲斐がある。
勝敗の行方が解らないから勝敗を楽しむことができる。
何もかも白日に晒してしまったら生きる喜びなど感じようがない。

心の奥の奥のその奥にある底知れない闇に、無垢なる魂がある。
それは母なる胎内の中であり、究極的な安らぎですね。
泣き叫ぶのではなく。安らかに眠っている状態ですね。
その闇、謎にこそ生命の源が隠されている気がするんです。

私は、嗚呼、何も解っていないんだと気付いた時、楽になったんですよ。
何も解っていないのならば最後は自分しかない。
大切なのは、結果ではない。
志す方向と行いなんですね。
自分が何を思い、何を信じるしかない。
それが自己の解放です。
脳なんかに支配されているのではない。
自分を支配しているのは自分の魂なんです。

総ての根源に永遠の闇、謎が潜んでいる。
そして、謎を解くこと、学ぶことの喜びを知ったのです。

人類がパンドラの箱を開けた時、神が怒られたのは、
人類が知恵を付けたからではなくて、訳もわからずに恥ずかしいと思ったからじゃあないんですかね。

豚に真珠、猫の小判と人間は、豚や猫をあざ笑うけど、
豚や猫は、真珠や小判のために仲間を殺したり、争ったりはしない。
ならば、真珠や小判の真の価値を知っているのは、人なんですかね。それとも、豚や猫なんですかね。

僕は、そこに人間の奢りを感じるのです。

人類は、このままで行ったら滅亡しないまでも凄惨な状態に陥るかもしれない。
しかし、それで神を呪ったりするのはお門違いである。
例え、人間が滅びるような事態に陥ったとしても、それは、神の罪ではない。人の罪である。
人が、悔い改めなければ、滅んだとしても、致し方ない事である。



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