2013年10月23日 11:07:32

神について思う

戦争と平和



平和、平和と言うが、それでは平和とは何か。平和とは戦争がない状態、争いのない状態を言う。ならば、平和の意義を知るためには、戦争の意味を知る必要がある。
戦争とは、暴力によって自国の意志を相手国に強要する行為、或いは、相手国を暴力によって支配しようとする行為である。

では、なぜ、人間は、戦うのか。

非暴力主義者、無抵抗主義者、平和主義者は、暴力を否定すれば、平和が訪れると信じている。
しかし、暴力を否定しただけで平和は訪れるのであろうか。
大体、彼等だって戦ってはいないのか。
考えてみれば、彼等も、暴力と戦っている。
暴力であろうと戦っている事には違いがない。
戦うというのは、多くの場合、単純に、戦いを好んで戦っているというだけではない。
自由や独立、正義を実現する為に戦っている者もいるのです。

無抵抗主義というのは、護るべき物が自分の生命財産以外しかない者がとる戦略の一つです。
国民の生命財産、国土という護らなければならない物がある国民国家がとるべき戦略ではありません。

要は、何を信じて戦っているかである。

なぜ戦うのか。

戦いという行為を単に否定的にばかり考えているとその答えは得られない。
この世の中には、戦いを好む人間が沢山いる事を忘れてはならない。
その証拠に、映画の多くは、戦いをテーマにした作品であるではないか。
世の中には、力を好む者もいるのである。
そして、暴力でしか解決できない問題もある。
この現実を受け入れないかぎり、真の平和の意味は理解できない。

人が戦いを好む要因の一つは、人の一生が死を前提としている事である。
それは人の一生が死を前提としているからである。
ただ生まれて、老いて、死んでいく。
それを潔しとしないから戦うのである。
その戦いの矛先は、世の中の不正や不条理、悪に対しても向けられるのである。
この点を理解しないと戦争はなくならない。
人は戦う時、大義を求める。
戦いを単に否定的に捉えるばかりではなく。
闘争心の持つエネルギーをより建設的、生産的な方向に向ける事が大切なのである。
その好例がスポーツである。
それが市場に於いては、競争となり、経済を活性化する。政治の世界では選挙となる。
また、スポーツの世界の原動力となる。それが経済を動かす力である。
生きる事が当たり前な事である人間と死と隣り合わせにぎりぎりのところで生きてい者とでは最初から戦う事に対する認識が違う。

また人は、自分を拘束するいろいろな柵に気がついた時、多くの人は、戦うことを決意する。
我々は、人生が学校のようなものだと考えたら耐えられない人間が出てきてもおかしくない。
学校というのは、毎日毎日、同じように決められた日々が続き、人間関係も教室という狭い範囲に限られている。
人々の評価は、成績によって厳格に管理されている。
そして、一定の期間が過ぎると当たり前のように序列が決められ卒業していく。
その平穏無事の生き方に耐えられなくなった時人々の闘争心に火がつくのである。
なぜならば、一見平穏無事に見える日々の裏には、差別や格差、貧困、汚職、犯罪、不正といった矛盾や不条理が隠されているからである。権力は、犯罪に近いほど抑圧的になって人々を押さえつけてくる事もある。
何もかも管理され、自分が正しいと信じた事を護る事もできずに、どうにもならないと感じた時、人々は、変化を求め戦いを始めるのである。

そう考えると不平不満なんて自分の問題である。何に対して我々は欲求不満になるのか。
不平不満があるから闘争心が沸くのか。それとも闘争心があるから、不平不満が生じるのか。
考えてみれば、不平不満は戦うための口実に過ぎない時がある。

この世の中が相対的で、矛盾に満ちた世界である限り、戦いはなくならない。
だとしたら、破滅的な戦いにならないように戦いを制御する事が必要となるのである。
その一つが戦略である。

戦いというのは相手があって成り立っているのであり、当方に戦う意志がないとしても先方に戦う意志があれば、戦争は成り立つのである。
戦争にならなければ、一方的な殺戮である。それは虐殺である。

医者がいなくなっても病気はなくなりません。
警察が犯罪を起こすわけではありません。
火事が多いからと言って消防署をなくせというのは暴論です。
軍隊をなくしたからと言って他国が攻めてこないという保障は何処にもないのです。
それは、国防思想と言うよりも信仰に近い。
或いは、我が国を侵略せんとする国の謀略です。

今の経済の最大の問題点は、私利私欲を経済の中心に据えている事です。
私利私欲が経済を牛耳っている為に、経済から公共の利益が失われていくのである。
つまり、大義、公儀が経済から失われ利己主義だけが経済行為を正当化する根拠となる。
それでも、神を怖れ敬っているうちはまだ救いがあるが、神さえ信じられなくなったら、残されるのは、強欲だけである。

神の名の下に行われる戦ほど凄惨な事はない。それは、神を自らの外に求めるからだ。自らの内に神が折られるとしたら、際限なき残虐さに心が震えるであろう。無邪気な子供達に対する仕打ちは、我が子に対する仕打ちとして同情するであろう。それが慈悲の心を生むのである。神の本質は愛である。

どんな残虐な事でも神の名の下に正当化する事はできる。しかし、正当化できないのは己の心、魂である。そして、自分の心、魂のうちにこそ神は居られるのである。顧みて己の心に恥じる事があれば、それこそが真実である。

人は、他人にはなれない。他人の境遇を羨むくらいなら、自分の世界で一番になればいいのである。結局、戦うべきなのは、自分の内にある妬みや怨み、憎しみである。
満ち足りた者は幸せである。






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