2013年10月30日 15:16:43

神について思う

タブー


現代社会には、タブーは存在しないかの如く見える。
現代社会は、タブーに挑戦し、タブーを否定する事によって形成されてきたとも言える。
そして、タブーが失われるにつれて、社会体制は混沌とし、無原則な状態へと移ってきた。
これは、一つの過程と考えるべきなのか、状態と見るべきなのか。
それが、この時代を見極める重大な鍵を握っている。

それを象徴しているのが性の解放である。
性の解放は、反道徳主義と表裏を為している。

タブー、特に、性の問題においては、どんな事をしても言いという事が性の解放だと思い込んでいる人達が多い。
今や性に関しては、禁忌というのはなきに等しい。
どんな行為も許されているようにすら見える。

しかし、何をやってもいいというのでは、早晩秩序は崩壊する。
結局、何をやっても言いながら、性の解放は、新しいタブーの源にもなる。
やがて問題は、新たなタブーを誰が作るかに移っていく。
それが新たな権威を生み出す事に繋がる。
元々、性行為というのは自分一人では成り立たない。
タブーは、男と女の関係から生じる感情の間を揺り動きながら、愛憎を絡ませ、
心の深層部分を形成していく。
憎しみや怨みは心の底に深く沈潜し、どうにもならない苦しみの本となる。
そこに性に関するタブーの本質が隠されている。
タブーは、愛憎、怨恨の源泉部分と深く関わっているのである。
それが長い時間を経ると、性の暗部、生の暗部、宗教の暗部にもなっていく。
だからこそ、神であり、聖と邪なのである。

人間関係の根本にあるのは、一組の男と女。
そして、その男女の関係から生まれる親と子の関係である。
男と女、親と子の関わりこそ生と性の秘密なのである。
そして、それは死を暗示する。

清浄で淫らな関係。
性が生へと転じる瞬間。
なぜ、タブーなのか。

人と人との有り様がタブーの本となっている。
そして、人と人との関係を定めたのは神である。
だからこそ、タブーの源は神なのである。
ただ、何をタブーとするかは、神のみぞ知るのである。

人と人との有り様を規定する事がタブーの本ならば、
性の解放を唱える者も多くのタブーを生み出している事になる。
一つの定めを否定すれば、新たな定めが生まれる。
他人の定めを受け入れないという事は、自分の定めを他人に強要している事に他ならない。
自由だ自由だと言っている者の多くは、独善者なのである。
独善者こそ多くのタブーを作り出す。

欲望の赴くままにしたい事をしたい放題したからといって自分を解放した事にはならない。
ただ欲望に囚われているだけである。
タブーの本質は、己の心の中にある。
己の心の聖なる部分にある。

この世の中には、確かに、侵してはならない事がある。

神を否定する者は、自らを神とする。

何をやってもいいというからといって、強姦や近親相姦が許されているわけではない。
これはタブーである。
これは人倫の本だからである。

タブーがないというのは神なき世だからである。
神なき世は、タブーなき世でもある。

つまりは神を怖れる事がないのである。

何でも許されていると思い込む事と、神に赦しを請う事とは違う。
神は何でも許されているのだから、最初からタブーなんてないというのは、自分勝手な解釈である。
確かに、神は、全てを許される。
しかし、それは自分の過ち罪を認めて、悔い改めるからである。
最初から、何でもかんでも許されているというわけではない。

タブーの根本は、聖と邪である。
これは、宗教の根本でもある。
宗教の根本も聖と邪である。

ヒンズー教徒は聖なる物の肉として牛肉を食べない。
イスラム教徒は卑しい物として豚肉を食べない。
聖なる物に対し賤しい物と理由は真逆であるが食べないという事においては同じである。
この様に、タブーの根拠は聖と邪からなる。

タブーは宗教の暗部を象徴している部分がある。
同時に、宗教の本質でもある。

神聖なる存在と邪悪な部分を明確に区分する境がタブーを形成しているのである。
だからこそ、タブーは、宗教にとって簡単に譲れない事なのである。

逆に、タブーを否定する事は、宗教における神聖な部分を犯す事にもなるのである。

タブーは象徴的行為である。
故に、タブーは、祭礼にも関わってくる。
冠婚葬祭にタブーは深く関わっているのである。

宗教を問題とする時、神のあり方や、教義が対象となりがちだが、実際の問題は、タブーが絡んでいる場合が多い。
なぜなら、タブーは、日常生活の行動規範の基礎となっているからである。
それでありながら、その根本が秘密が高いからである。
それ故に、科学的精神や合理的精神に反しているように見えるのである。
つまり、タブーこそ、迷信の根源的要因の一つだと見なされてきた。
その反面、タブーは倫理観の基礎を形成する事でもある。
また、宗教者としての生活の枠組みでもある。
つまり、タブーは宗教の土台となる部分なのである。
故に、タブーに対する否定は、時には、命がけでもあった。

タブーは、人々の行動規範の基礎となる。
それ故に、タブーに挑む事は革命を意味する。

近代はタブーへの挑戦によって築かれたと言ってもいい。
近代は、タブーの否定の上に成り立ってきたと言える。
それ故に、宗教と真っ向から衝突し、時には、宗教裁判にまでなったのである。

そして、タブーへの挑戦手段として科学が活用されたのである。
そのために、タブーは非科学的、前近代的な事として捉えられがちである。
しかし、タブーの本質は、宗教の根本を象徴的に現した事なのである。

確かに、タブーを否定する事で思想や信条の自由は確立されてきたかもしれない。

しかし、同時に、神聖なる存在を否定し、邪悪なる部分を解放する事にも結びついている事を忘れてはならない。

タブーとは、禁忌である。してはならない事、犯してはならない領域である。
典型的なのは神聖なる場所に存在する。

神聖なる場所では、服装や食事、礼節作法として厳しくタブーに従って戒律が決められている。
これらの多くは、形式に根本があり、理念ではない。してはならない事はしてはならないのである。

タブーは、存在の意義を象徴的に表している。
つまり、生と死に関わる事を根本としている。
タブーと結界、領域は深く関わっている。

タブーで一番問題となるのは自殺である。
自己の存在を神の赦しもなく否定する事はタブー中のタブーである。
故に、自殺はタブー中のタブーである。
しかし、主体性もなくなり、意識もないのに、生かし続ける事は正しい事なのか。
それはタブーとは関わりのない事である。

タブーは、基本的に抑圧的、抑制的な事である。
つまり、禁欲的な事である。
タブーは、欲望に対する取り決めと言っていい。

典型的、欲は、食欲、性欲、虚栄心である。
つまり、タブーは、食事や婚姻に対する取り決めが多い。

タブーをなくす事は、迷信をなくす事だと考えられる。
しかし、迷信で歩かないかは価値観の問題である。
むしろ、新しい価値観を作り出している事であって、新しい価値観には、新しい価値観なりのタブーが存在している自覚すべきなのである。
タブーは、取り決めてもある。タブーの否定は古い契約の否定であってそれは新たな契約を意味するからである。

タブー、一番問題となるのは、男と女の関係、生と性に関わる問題である。
そして、それは男と女の立場、位置づけを定める。有り体に言えば男尊女卑的な価値観の根底を形作るからである。

それに、タブーを犯すとなかなか自分を許す事ができなくなる。
それだけ、タブーというのは根深いのである。

人間には、侵してはならい領域が確かに存在するのである。

タブーの本質は何を聖なる事とするかにある。
そして、何を穢れたものとするかにある。
本当は、タブーそのものあるのではない。
タブーは象徴的な事、或いは、行為なのである。

なぜ、どの様にしてタブーが生じたのかが重要なのである。




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