2013年10月23日 11:07:32

神について思う

その日・その時


多くの現代人は、今の世界がこのまま続くと思っていない。
このまま続くはずがないと心のどこかで考えている。
どこかで限界が来て、その日その時が来る。

その日、その時が来れば、今まで自分が信じてきた事も、
築き上げてきた生活も夢も、その全てが土台から潰え去ってしまう事も知っている。

五年先、十年先、二十年先、
今と同じような生活が保障されているなんて誰も信じていない。

しかし、いつ、どの様にして、その日が訪れるのか、誰も知りようがないのである。

かつての予言者が言うように、
何年の何月何日と特定の日付を指定できるとは考えないが、
誰もが、確実にその日が近づいていると思っている。

ある日、突然、その時が来るのかもしれない。
じわじわと病に冒されるようにその日は来るのかもしれない。
或いは、もうすでに始まっているのかもしれない。
しかし、誰にも本当の処は解っていない。

ただ何となく、人々は、その日が来る事を予感し、
その日の陰に、怯えて生活をしているのである。

現代人の多くは、確実にその日が来る事を予感している。
その証拠に、ハリウッド映画は、
その日に対する、また、その日の後の世界に対する多くのシナリオを用意し、
また、実際に多額の資金を投じて映画化もしている。
その多くがヒットしているのである。

その日の先にどんな社会が、世界が待ち受けているのか。
それも、誰にも解らない。

自分達の今の社会の延長線上に捉えられる世界なのか。
それともまったく異質な社会なのか。
何も、解らないままに、いつもと変わらない日々を送っている。

何が原因でその日は来るのか。

人間の愚かさが原因なのか。
それとも、神の怒りに基づくのか。
それすら誰も解ってはいない。

ただ、いずれにしても、人間が多くなりすぎた事が原因の一つである事は間違いないところだ。
この世界は、有限なのである。
限りがあるのだ。

無限や無尽蔵なのは、神の世界の話であり、想像の世界の話である。

何がきっかけになって、その日は訪れるのか。
きっかけになる事は数多くある。

古い世界の発想なら、干魃や飢饉。
伝染病や天変地異。
戦争や、無秩序と言うのだろう。
しかし、これらの要因だって、決して古い時代の話ではない。
現代でも共通した話である。

最近の話では、最新科学の話などを織り込みながら、より巧妙になっている。

例えば、隕石や地球的環境異変、地軸変動、人口問題に、食糧問題、水問題、エネルギー問題、
核兵器の拡散や生物化学兵器、原発事故、パンディミック、異生物の侵略、
火山の噴火、津波に、洪水、大嵐、竜巻、大地震、温暖化が言われれば、寒冷化も言われる。
太陽の異変だって考えられる。
経済的原因には、大恐慌に財政破綻、ハイパーインフレ、金融危機、通貨危機、
株価の暴落、石油の高騰、資源の枯渇。
また、政治的問題では、戦争に革命、クーデター、宗教対立、人種問題、民族対立、
領土問題、歴史問題、テロ、暗殺、陰謀、権力闘争と
その日を引き起こす要因には事欠かない。
個人的野望や男女の問題だって考えられる。

だから、多くの国や権力者達は、その日に備えて各種のシェルターを作ったり、金を蓄えたりもする。

また、山に隠れたり、共同体を作ったりする人間が後を絶たなかったりするのである。

多くの人は、自分だけは助かりたいとあがいている。
しかし、一人一人の力なんてたかがしれている。
その日が来れば、圧倒的な力で、人間の世界なんて押し流されてしまうに違いない。

日本人は、かつて、国家の破局を経験している。
日本人の価値観は、昭和二十年八月十五日を境に一変したのである。
そして、その破局の底から這い上がってきて今日の繁栄を築き上げた。
しかし、その経験が日本人にかえって奢りや油断をもたらしていやしないだろうか。

だから、多くの日本人は、何の備えをせずにいて、その日が来ても、
生き延びる事ができると勝手に思い込んでいる。

二十世紀では、その先には、社会主義国が自由主義国に変わっていくのだという思想が蔓延していた。
しかし、今は、それが幻想である事もハッキリとしてきた。
かつての様に資本主義国の後は、社会主義国が成立し、
やがて共産主義の体制になるだろうなんて単純に思っている者はごくわずかに過ぎない。

その日が来たらどうなるのか、エジプトやアフガニスタン、シリアと言ったような無政府的な状況に支配されるのか。
独裁者、全体主義者による暴力が支配する世界になるのか。
それとも、現代の社会の延長線上で捉える事ができるのか。
または、それらが混沌とした世界になるのか。

経済はどうなるのか。紙幣は、紙切れになってしまうのか。
生活に必要な物資は確保できるのか。
生きていく為に必要な食べ物や水は確保されるのか。
食料の安全性は保証されるのか。必要な薬は手に入るのか。
生命や財産は保証されるのか。
金は使えるのか。
子供達はどうなるのか。

社会主義が資本主義に取って代わるというのは、幻想のように思える。
しかし、資本主義だって、よくよく考えると社会主義と変わらないのではないのか。
資本主義国も、社会主義国も究極的には同じ方向に向かっているように見える。
社会主義国は、国家を社会に置き換え、国民を政党に置き換えた体制であり、
資本主義国は、国家を株式会社に置き換え、国民を資本家に置き換えた体制である。

競争は、手段である。
競争は原理ではない。
競争を絶対視したら、競争は競争でなくなる。
ルールなき競争は、競争でなく闘争である。強い者しか生き残れない。

最終的には、市場は一定の勢力の支配下に置かれる事になり、独占、寡占状態になる。
独占、寡占状態になれば競争はなくなる。
競争がなくなれば市場は機能しなくなる。

規律ある市場の基で適正な価格の競争によって個人の権利を守りつつ、
全体の整合性を保つ体制こそが望ましいのである。

それはプロフットボール(NFL)の世界のようにである。

我々にできる事は、
第一に、その日が来ないように最善を尽くす事。
第二に、その日が来た時に備えておく事。
第三にその日の先にどの様な社会が来るかを予測する。
或いは、どの様な社会にするのかの構想を持つ事の三つである。

多くの人間は、その日が来る事に怯えながら、
明日も、今日と同じ日が来る事を前提として現状を維持して生活しているのである。
多くの人は、なるべくその日が来る事を考えないでおく事にしている。

或いは、自分が生きているうちには来ないと思っている。

変わらない、変わるはずがないと自分に言い聞かせ、納得させて
いつもと変わらない生活を続けようとしている。
そして、どうせ俺一人が何かしたところで変わらないと、
平穏な生活から抜け出そうとはしない。
このまま終わるはずがないと思っているくせにである。

それでも、何時かはその日が来る。
大多数の人は、そう思っている。
それは死の予感と同じようなものである。

その日が必ず来ると覚悟したら、
何もせずには生きていけないはずである。

仮に、今、行動を起こして、自分の持てる物全てを、失ったとしても、悔いはない。
第一、その日が来れば、否応なく全ては、奪い去られてしまうのである。
結局、早いか、遅いかの違いに過ぎない。

死ぬ気かと聞かれたら、人間、何時かは、死ぬのだと応えるしかない。
それよりも今を最善に生きるしかないのである。
今、自分のできる事をやるしかない。

ただ、いずれにしても、また、何をするにしても、
神を信じる以外に道は拓けない。
それだけは確かである。
なぜなら、神を信じるからこそ、自分の未来を信じる事ができるからである。

この様ない時に未来を人々が信じる事ができなくなれば、欲望だけに支配され、
本能の赴くままに行動するようになる。
暴力と恐怖に支配された社会になる。
この様な時だからこそ、規律が、正義が求められるのにである。

神を信じたら、何かが変わるか。
事態は善くなるかと聞かれても、良くなると応える事はできない。
ただ、神を信じる者は救われるとだけは言える。
言い換えれば、神を信じる者のみが救われるのである。
だからこそ、いつも心に神を信じる心を持つ事が大切なのである。

最後は結局、神を信じるか否かの問題になる。
仮に、神を信じぬ者が戦いを挑むならば、
メギドの丘で神の側に立って戦うしかない。





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