2013年10月11日

神について思う

なぜ、生きるのか


同世代の人間に、なぜ生きるのかと聞くと、
大概、最初は戸惑った表情を見せるが、結局、
人生は、ただ自分のためにだけ生きる事だと応える。

大義だとか、
天下、国家なんて考えても見たくないようである。

そして、

国のためにでもなく。
神のためにでもなく。
家族のためにでもなく。
愛する人の為にでもなく。
世の為、人の為にでもなく。
夢のためにでもなく。
そんな事はどうでもいい事で、
人生なんて、
ただ、生きているに過ぎないという。

多くの人は、それが、科学的とか、合理的とかというけれど、
それすら、本当は、何の根拠もない。
ただそう思いたいだけだ。
自分以外のために生きるなんてひち面倒くさい事なのである。

最近の脳科学なんて言うと生きる事は、単なる生理的現象で
この世の中は、人間の脳が作り出した幻影に過ぎないなんて説明している。
そうなると、脳死すれば全ては終わる。
極めて冷めている。

その様に考えると人間は、何の感慨もなく生きている事になる。
生きる目的なんて無意味だ。

突き詰めてみれば、生きる事が目的になる。
つまりは、生きんが為に生きているという事になる。
そう考えると、
自分のために生きているわけでもない。

何も、結局、信じられなくなる。
その結果、現代人は、何も、信じていないのである。
その人間不信こそが現代の特徴でもある。
虚無の世界である。

それが科学だとシャアシャアと言う。

誰も、何も信じられない。

神も信じられない。
国も信じられない。
死後の世界も信じられない。
家族も信じられない。
愛する人も信じられない。

だけど、それでは生きる目的や生きる意義など求めようもない。
その虚無こそ科学だというのである。

しかし、それは思い込みだ。
科学は無でも、虚でもない。

人間は、自分が作り出し意識の中で生きている。
言うなれば意識が作り出した世界の中で生きている。
言い換えれば、意識の持ちようで世界は如何様(いかよう)にも変わってしまうのである。

神を信じる者にとっては、神の存在は自明な事だし、
神の存在を信じない者にとっては迷信なのである。
問題は、どちらの方が有意義な人生を送れるかである。
信じないのも勝手なら、信じるのも勝手である。
そこの処を間違えてはいけない。

神を信じ。
国を信じ。
家族を信じ。
愛する人を信じ。
友を信じ。

人生は、何を信じるかで決まってしまう。
神を信じ、死後の世界を信じるのは、自分の人生を有意義にしたいからに過ぎないのかもしれない。
それで幸せになれれば良いではない。

自分は自分に殉じるしかないのである。

神を信じたり、死後の世界を信じる事は迷信だという。
しかし、神を信じたり、死後の世界を信じる事の何処が悪いというのだろう。
それで、自分が救われたり、癒やされたり、生き甲斐を見つけられるのならばそれはそれでいい。
他人が干渉する事ではない。
神を信じる事で、一緒に生きたり、憎しみあったり、争いが起こるならば別である。
しかし、ただ神を信じる事で、他人に危害を加えるわけでなく、その人の心が救われて、安穏とできるのならば他人がとやかくいう事ではない。

虚無を気取ったところで幸せになれるわけではない。
虚無を気取っても心の安寧が得られるわけではない。

栄耀栄華を極める者もいれば、虫けらのように死んでいく者もいる。
スポーツの世界を極める者もいれば、生まれつきの障害者もいる。
天才もいれば馬鹿もいる。
王侯貴族に生まれついた者もいれば、無名で死んでいく者もいる。
人の一生は、自分では思い通りにならない事だらけである。
他人の人生や境遇を羨んでも幸せになれるわけではない。

でも、神を信じる事は誰にでもできるのだ。
神の栄光に浴する事は誰にでもできる。
自分の人生は、ただ一つの人生である。
自分を信じて、自分を大切に生きていきたいと思うのが人の情である。
自分の生き方を卑下したところで幸せにはなれない。
ならば、自分だけの神を信じて、神に救いを求めてなにが悪いというのか。

親は子を、子は親を選べない。
しかし、信じる者を選ぶ事はできる。

人の一生は、何を信じるかによって定まるのである。

神を信じる者は、愚かだと言うが、
神を信じるのは、非科学的だと言うが、
神を信じるのは、不合理だと言うが、
神を信じるのは、迷信だと言うが、
今、神を信じる事にどれほどの害があるというのだろう。

神を信じないでいられるほど、人間は強くない。
神を信じなければ、何を信じるのか。
神を信じなければ、何に寄り添うのか。
神を信じなければ、何に縋るのか。

何も、信じられる物がない事ほど恐ろしいものはない。
神も自分も信じられずに孤独になれば、
底なしの闇に引き込まれてしまう事になる。
救いはない。

今の日本人は、成り行き任せになってしまっている気がする。
でも、このまま何も起こらずに済むと思いますか。
このまま安穏とやっていけると思いますか。
易きにつこうとする気持ちを奮い立たさなければならないと自分が駄目になってしまう気がするのだ。
負け犬根性が染みついている気がする。

いずれは、変わらなければならないのならば、自分の意志で、自分の手で変える。
然もなければ、自分の人生ですら自分の思い通りにできない。
私はそう思う。
何もしなければ、何も起こらないかもしれない。
なぜあえて波風を起こす必要があるのか。
しかし、何もしなければ何も変わらないのもまた確かだ。

戦後日本人は、自分で自分の事を決めなくとも何となくやってこれた。
それが、日本を危うくしているのだ。
最近の若い連中が、結婚をしない理由も、何も変わりたくないから、
今のままで良い、現状に満足し、安逸な生活に耽溺したいからに過ぎない気がする。
動けば何もかも失うかもしれない。
たとえ、そうだとしても、何もしない人生よりずっとましだと私は思う。

僕は、人生とは、人と人との出会いで決まると思っていた。
有意義な人生を送りたければ惚れる事だというのが信条。
惚れるというのは、
第一に、人に惚れる事、
第二に、仕事に惚れる事。
第三に、男なら女に、女なら男に惚れる事だと思う。

一番、良いのは、事業に惚れる事。
男子の本懐は、事を為す事だと思っている。
次に言えるのは、人に惚れる事。
人生を伴にできる、命を賭けられる人に出会えたら最高だと思う。
最後に、異性に惚れる事だと思う。

確かに、信仰の始まりは、死に対する恐怖だってのかもしれない。
だから、霊的な事は、どこか恐ろしい。
恐怖のために、多くの生け贄を捧げたりもした。
また、盲目的に、教義、経典を信じる事を強要した。
それは確かに善くない事だ。
だから、迷信だ、邪心だと言われた。
しかし、純粋の信仰は、神のみに向けられる事である。

神を信じる事で救われるのならば、なぜ、信仰を否定する必要がある。

結局、自分が信じたいから、自分が信じるものを信じるのである。
それは、自分の人生を有意義にし、自分に存在価値を持たせたいからだ。
そして、なぜ、それを否定する必要があるのか。
死後の世界を信じる事で、自分の心が安らかになれるのなら、それはそれで良いではないか。
所詮、人間は、その程度の存在なのだ。

人間はただ生きて死んでいくだけの存在なのだろうか。




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