2013年9月18日

神について思う

神と国家





高度な政策的判断を下す際、
基礎となる要素の優先順位は、
第一に、神への信仰である。
そして、第二に、思想への信奉。
第三に、国家への忠誠心、
第四に、家族に対する愛情と続く。
これらを踏まえて、
第五に、地位や名誉に対する志向。
第六に、金や富への欲望が成り立つ。

信仰心なき者は、思想が絶対となり、信仰も哲学もない国家は、愛国心のみを追求する。
愛国心なき権力者は、権力に支配され、金に執着する者は、金に囚われて守銭奴となる。

信仰心がないために、唯物的な社会が作られ、
信仰も哲学もない者に盲目的な忠誠を強いられ、
終いには、地獄のような戦争も体験した。
なのに人類は何も悟ってはいない。

国家は、人が創造した仕組みである。
国家の仕組みは国家理念に基づいて構築される。
国家に対する理念が明らかでなければ国家は形成されない。

国家理念は、人が生み出した事である。
故に、国家理念は、絶対ではない。
国家理念は相対的な事である。

信仰は、究極的な知性である。
知識人を気取っている無神論者程、品性のない人種はいない。
神を信じるという事は、無神論者の言うような、非科学的な事でも、不条理な事でもない。
極めて知的な行為なのである。

科学は、人が創作した体系である。
論理も、また、人が産みだした体系である。
故に、科学も、論理も絶対的な事ではなく。相対的な事である。

存在が相対的なのではない。認識が相対的なのであり、認識の上に成り立っている科学が相対的なのである。
故に、科学は、万能たり得ない。

絶対的なのは神の存在であり、人の認識は、相対的である。
認識が、相対的だからこそ対象を識別できるのである。

科学万能を唱える者は、科学によって神を克服したと思い上がっている。
しかし、真の科学を知る者は、科学が万能でないことを知っている。

人は、全知全能にはなれないのである。

信仰心を基礎とするからこそ自由主義も民主主義も成り立つのである。

国家は、人か創り出した仕組みである。
国家理念もまた、人が創り出した事である。
国家も国家理念も相対的で、不完全、有限な認識の上に成り立っている。
即ち、絶対的な事ではなく、限界がある。

哲学、思想、理念は認識が創り出す事である。
故に、哲学、思想、理念は相対的な事である。
信仰がなければ、本来、相対的な事である哲学、思想、理念を絶対視するようになる。
故に、信仰が思想の上位に来るのである。

相対的である哲学、思想、理念は、前提条件や状況、環境、時代が変われば、
その前提条件や状況、環境、時代に合わせて変化する。
人は、成長する。
人は成長に合わせて着る服を変える。
今の自分を絶対視して成長を度外視すれば、服は自分に合わなくなる。
人は、環境や状況に合わせて服を着替える。
真冬に真夏の服でいれば凍えるし、真夏に真冬の格好でいれば、暑さで倒れる。
人は、成長や変化に合わせて服を着替えるのである。
国家も同じである。国家も成長する。
成長に合わせて仕組みや体制を変化する事ができなければ、
国家は、自分の変化に追いつかなくなるのである。
国家は、自分を超えたところに、普遍的で不動な存在を前提としなければ、国家が絶対化される事になる。
国家が絶対化した時、国民は、自分達の変化が受け入れられなくなる。
その時、国民の自由は奪われるのである。

国家の自由と独立は、神への宣誓によって保たれるのである。
ここでいう神は、絶対的存在を指して言うのであり、特定の宗教を代表する神を言うのではない。
なぜならば、神は無分別な存在だからである。

国家とは人が作り出した仕組みである。
人は、神を超えることはできない。
故に、国家もまた、神を超えることはできない。
人が神を超えたと思い上がった時、人類も国民も滅びていくのである。

無神論者が大国の権力者になる事は人類にとって危険な事である。
しかし、彼は悪魔かと言えば違う。
彼は人間である。
人間だからこそ危険なのである。
神を信じぬ者は貪欲である。
おのれの欲望に歯止めがきかなくなる。
自分の権力や地位、命に固執して、
自分のために国家を危機に陥れても恥じる事がない。
保身のために、戦争や災害のような国家の危機を利用しようとさえする。
なぜなら、自分以外に怖れを知らないのである。
神を怖れないからである。

哲学や理念は、信仰があってその不完全性を補う事ができる。

国家への忠誠心は、神への信仰があって真価を発揮する。
自分を超えた存在に対する怖れを失った時、国家も人も自制心を失うのである。

信仰心も国家理念もなければ、
国家は、それ自身が目的となり、国民を犠牲にする事を厭わなくなる。
それは、国家そのものが自己矛盾を起こす事になる。
国家の目的は、国民の幸せと安寧である。
国家が自己目的と化した時、国家は、国民の幸せを犠牲にして、国家の安寧を踏みにじるのである。
そして、他国への侵略を正当化し、規律を失っていく。

今はその愛国心すら失われ、権力の虜となった独裁者や金が全ての銀行家や実業家が跋扈する。
その結果、この世は修羅場と化した。

修羅場と化した現世には、道徳も、道義も、人情も侮られる様になった。
分かち合い、助け合いの精神は廃れたのである。

愛国心なき権力者は、平然と国民を裏切る。
我利我利、亡者に成り果てるのである。
自分の身を守るために国を犠牲にする。
権力者が愛国心を失うのは、それ自体堕落である。

愛国心なき権力者は、
自分の野望のために、或いは、保身のために、他国を侵略し、また、圧政をとる。
愛国心なき権力者にとって主たる存在は自分であって、国家は、従うべき存在。
従える存在なのである。
愛国心なき権力者は支配者であって、国民の利益を代表する者ではない。

愛国心なき、権力者は、国民に愛国心を強要する。
無神論者が神を信じないから神を利用できるように、
愛国心なき権力者は、愛国心がないから愛国心を利用できるのである。
そして、その様な者は、信仰者を、愛国者を装うのである。

真の信仰者は、神を使って金儲けをしようとはしない。
真の愛国者は、自分のために国民を犠牲にしたりはしない。

騙されてはならない、それは、偽の信仰であり、似非の愛国心である。
彼等は、信仰者でも、愛国者でもなく偽善者である。

信仰が廃れ、愛国心が失われれば、
人は、憎しみ争う事でしか生き残る事が許されなくなる。
それを生存競争というのは人間の勝手だが、神の意志ではない。
市場取引を絶対視し、競争ばかりを原理だとする者達が何を崇めているかを見れば歴然とする。
彼等が崇めているのは金に過ぎない。彼等は金と権力しか信じられなくなっているのだ。
彼等が神と崇めるのは金と権力である。
しかし、そこには信頼も愛情も欠片(かけら)もない。

現代人は、神に変わって金を拝め、権力の虜になりはててしまったのである。
それが諸悪の根源である。

故に、彼等は愛に飢え、渇く。

愛とは何か。
人は、愛する者達のために働くのではないのか。
愛とは、お互いを認め、高め合う事ではないのか。
愛とは、分かち合い、助け合う事ではないのか。
愛する者のために働くのは愚かな事なのか。

国を護るとは、愛する者を護る事ではないのか。
国を護るという事は、権力者や暴君を護る事なのか。
なぜ、人は、圧政に苦しみ、戦争に怯えるのか。
それは、神への信仰を忘れてからではないのか。
大義は廃れた。

父母のために、愛する者の為に、子孫の為に、我々の父祖は崇高な精神をもって防人となった。
今は、金と権力、そして、恐怖心に支配されて他国を侵略する。
何処に大義があるのか。

かつて、国を愛するが為に行われた事業もただ我欲を満たすためだけの事と成り果て。
夢は、愚か者の妄想に過ぎなくなった。

成功や栄華のために家族を犠牲にすることさえ厭わない。
家族は崩壊し、夫婦は憎しみ合っている。
だから、結婚を望まなくなり、子供を厭うようになる。
それを個人主義とは言わない。それは、利己主義である。

誰のために、何のために働くのかも解らないまま、人々は虚無の空間を漂っている。

金や権力を真実だというのならば、なぜ、彼等は薬に溺れ、快楽を貪り食らおうとするのか。
その証拠に、成功者と言われる者達は、どれほど美味しい物を食べても満たされる事はない。
浅ましい程に飽食する。しかし、何を食べても空しいばかりである。
粗末でも何時か団欒で食べる食事の温かさ。
愛する人の手作りの料理の美味しさを忘れてしまった。
母の味など彼等は知らずに育つ。
美味しさは、作ることはできる。
しかし、その多くは錯覚である。
自然の味ではない。
人間は味覚が馬鹿になってきたのである。
だから、腐った物でも見分けることができなくなった。
錯覚を真実の味だと思い込んで、美食だと奢っているに過ぎない。

人は、真善美を見分けられなくなった。
そして、邪悪な快楽を求め、清純で素朴な美しさを侮るようになったのである。
美を醜悪とし、醜悪な物を美としている。
多くの現代人は、歪んだ心を是とし、正直な気持ちを憎んでいる。
それは、餓鬼道である。
清純や清潔な物の中にある真善美が見極められなくなり、人工的な造形物しか愛でる事しかできないのである。
彼等は仮想現実の世界に生きている。錯覚の中で真実を見失っている。
段々に生身の人間すら愛せなくなりつつある。
架空の世界で架空の愛を求めるのか。

哀れ。哀れ。

清浄な水や新鮮な空気の聖なる味を味わえないでいる。

汚れた空気とゴミだらけの世界。
そこを理想の国とするのか。
ゴミも自然に処理ができずに堆積するばかりである。
鮮やかだが毒でしかないゴミの世界。
その様な世界を望んでいるというのか。

愛に変わって快楽が支配し、男と女の関係は、欲望を満たすだけの行為でしかなくなった。
快楽を得る為に偽りの愛を語り、真実の愛を捨てようとしている。
それを偽善という。
人は何も信じようとはしなくなった、何も信じられなくなったのである。
それを進歩というならば、進歩は堕落に過ぎない。

信じ合い、助け合う事をおろかというのならば、人間は何によって生きていけばいいというのであろうか。
所詮、快楽の餌食になるだけではないのか。

愛する事を愚かな事と言うのならば、愚かで良いとしよう。
愚かになって愛のために死のう。
何も信じられないのならば、生きている甲斐がないではないか。
金の奴隷になるくらいならば、愛の虜になった方が余程ましだ。
誰も信じられずに孤独に死んでいくよりも、たとえ貧しくとも愛する人々に囲まれて死んでいく方が良いに決まっている。

どれほど多くの報酬を得たとしても喜びを分かち合う伴がいなければ、どれほどの価値があるというのか。
仲間を裏切ってまで勝ち取りたい栄光とは何か。
信じ合ってきた仲間を裏切って得た栄光なんて、輝かしければ、輝かしい程、空しいばかりだ。

大切なのは、結果ではない。過程である。
なぜならば人生は過程だかだ。生きるという過程だからだ。
結果は、結果に過ぎない。
結果よりも明日を信じられる事の方が価値がある。
結果より、志すところが大事なのである。

百万言を費やしても愛を伝えることは難しい。
しかし、人を愛すれば愛の真実はたちどころに理解できる。
愛を知りたければ、人を愛そう。

かつての教育には、学習と修行がある。
戦後の日本は、修行を捨てた。

修行の根本にあるのは、聖なる教えである。
聖なる教えは、言葉では教えられない、体得すべき事なのである。
戦前の日本人は、修行に重きを置いた。
聖なる教えを指導できる者こそ師なのである。
聖なる教えとは、人間、如何に生きるべきかである。
日本人は聖なる存在を捨てたのである。
だから、日本人は、人生を指導できる師を失ったのである。

教えは、聖なる存在から発する。
それでなくて何を教わるというのか。

現代人は愛を教わる前に悦楽を教える。
そして、愛は幻想で、快楽こそ現実なのだと教える。
しかし、それは希望を否定し、絶望を真実だと教えるような事である。

神を信じるが、故に、人は癒やされるのである。
現代人は、どんどんと神を遠ざけているばかりである。

故郷を国を慈しみ愛そう。
恋をしよう。友と喜びを分かち合おう。
仲間を信じよう。
親を大切にしよう。兄弟姉妹と仲良くしよう。
絆を大切にしよう。縁を大切にしよう。
夢を見よう。希望を持とう。信じよう。
明日を信じよう。
神を信じよう。







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