2013年9月3日

神について思う

神     話


宗教には、神話がつきものである。
特に、創世神話は神話の中でも中心となる話である。

神話というと物語である。
多くの神話は、昔語りや民話、説話のような形をとっている。
現代人から見ると荒唐無稽な夢物語、童話のような話が多い。
神話に出てくる人物は、漫画や映画のヒーローのような存在である。

多くの神話は、昔語りの形をとりながら、人々に長い間、伝承され、人々の行動規範を支配してきたのである。

神話は、森羅万象を支配する因果関係を暗示している話が多い。
なぜ、人は生まれ、死んだら何処へ行くのかを暗示しているのである。
神話を事実だと思い込むのは、不合理である。しかし、神話を単なる荒唐無稽な話と片付けるのも早計である。

人間の脳は、因果関係を明らかにするために、物語を創りたがるものらしい。
その究極的なものが神話や伝説である。

物語は人の行動規範に作用する。時には、行動規範の下地となる。
物語は人の倫理観に深く作用し、どの様に生きるべきかの導き手となる。
(「偶然と必然の方程式」マイケル・J・モーブッシン著 田淵健太訳 日経BP)

神話や伝説は、物語の形をとりながら、社会の掟や仕組みの根本を暗示しているのである。
神話や伝説は、人々の生活に根を下ろし、風俗習慣に浸透し、礼儀や作法の根源となり、冠婚葬祭の根拠となっている。

神話的世界と現実の世界は表裏の関係にあるのである。

神話や伝説は、繰り返し語り継がれることによって人々の心の奥底にまで浸透し、人々の価値観の土台を構築してきたのである。

神話は、物語だからこそ、人々に受け入れられたのである。
これが、法や掟も説教のようなものだったならば、人々の心をとらえることはなかったであろう。

現代社会にも神話や伝説はある。
それが、小説や漫画、テレビや映画、ビデオである。
子供達は、テレビやゲーム、映画を通じて社会のあり方や親子、兄弟の関係、友情、男と女の関係、師弟関係などを経験的に学んでいる。
そして、頭の中に自分の生き様の構想を作り上げていくのである。
ただ、現代の神話の中には神はいない。それが深刻なのである。
神がいないから、結局、人間の傲慢さだけが際立ってしまうのである。
神話には、神への畏敬心が常に存在し、人間の欲望や妬み、憎しみ、争いに対する抑制がある。
しかし、神への畏敬心を失った人間は、ひたすら、欲を解放し、抑えが効かなくなって暴走を始めているのである。

科学的で合理的な神話程危険なものはない。
そこには神が存在しないからである。
神に対する怖れがない。
聖なる物が存在しない。

科学も、経済学も、政治学も、心理学も、意図的に神に対する話に触れないようにして発展してきた。
科学も、経済学も、政治学も、心理学も形而下の事象を問題として扱っている事を前提とし、形而上でのトラブルを避けてきたのである。
しかし、科学や、経済学、政治学、心理学が、形而下の問題のみの問題に限定して扱っているのならば、
取り残された重要な問題は、形而上の問題、即ち、存在の本質に対する考えや哲学である。
そして、神の問題である。

映画やビデオに描かれた世界は、神なき神話である。
そこでは人が神に成り代わっている。

神なき世だからこそ、
現代社会は神の問題を避けて通れない程、深刻になってきたのである。
神話は形而上の世界の問題である。
だからこそ、神話は、現実性を帯びる事が可能だったのである。
神話は心の現実を反映していたのである。



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