2013年8月6日

神について思う

神と経済


経済とは、人々が生きていく為の活動を言う。
人々が生きていく為に必要な日々の営みを経済という。
経済とは、人々の生活を豊かにし、幸せにする事を言うのである。

経済は、人々を幸せにする手段である。

人は、神によって生かされている。
経済は、人が生きていく為の活動である。
故に、経済は神の恩寵なのである。

経済とは、生きる為に必要な物を生産、或いは、調達し、それを分配することである。

宗教というのは、元々、俗っぽいものである。
だから、宗教と経済は切っても切れない関係にある。
その典型が金利である。
金利に対してキリスト教、ユダヤ教、イスラム教では教えに差がある。
それが経済体制にも重大な影響を歴史的に与えてきたのである。
詳しいことはここでは述べないが、宗教と経済は密接に繋がっているのである。

正直言ってお金の話は厭な話である。
なぜなら、お金というのは取り分を具現化した物だからである。
物を生産する時は一致協力するが、できた物を分けようとしたとたんに諍いが始まる。
だから、経済の問題は分配にあるのである
どれほど沢山の収穫があってもそれを分けようとすると不公平が生じる。
不公平というのは分配から生じるのである。

「お金」の話は、厭なことだから、最初にルールを決めておく必要がある。

先日、テレビでパラオに嫁いでいった日本人妻の生活を取材した番組をやっていた。
先ず第一に言えるのは、パラオでは、生活に必要な物は、自然に成っている物で間に合わせようと思えば間に合わせられるのである。

パラオでは生きていく為に必要な資源を必ずしも、市場から調達する必要はない。

現金収入は、お金でしか手に入らない物を調達する為にある。現金で手に入れたい物がなければ、現金収入を得る為に働く必要はない。
パラオの人間の多くは、現金収入が合ったらその日のうちに使い切ってしまう。それでも、生活は困らないのである。

パラオでは現金収入は、子供の小遣い銭ぐらいの意味しかない。
子供は、生活に必要な物を自分が働いて得た「お金」で得ているわけではない。
生きていく為に必要な者の多くは「お金」ではなく。現物で支給されているのである。
小遣いは、それ以外の使い道があった場合の為に必要に応じて支給されている。
パラオの現金収入は、この子供小遣いと大差ないのである。

パラオでは、生きていく為に必要な分の食料は、自然に木の上に成っていたり、土を掘り返せば手に入るのである。又、気が向けば、海に行って魚を捕ったり、山で猟をすればいいのである。
食料は、彼等にとって現金と引き替えに手に入れる商品だけとはかぎらない。
生きていく為に必要な食料は、お金を出さなくても一年中自然に成っているのである。
だから蓄えを考える必要がない。必要がないのだから基本的に蓄えをするという発想がない。

又、パラオでは親戚や隣近所の人間が、黙って家の中に入り、冷蔵庫の中の物や食器棚にある缶詰を持って行ってしまう。
彼等は物を盗んでいるとは思っていない。
分かち合っているだけである。

彼等にとって冷蔵庫の物や食器棚にある缶詰は、木に成っている実と変わりがないのである。また、同じ共同体に属する者の食料は、自分達の共有の資源なのである。

生活に必要な物、全てを、現金収入に頼っている社会とは異質なのである。
しかし、パラオの方が、日本よりも経済のあり方の原点に近い。

最初にお金ありきではない。
お金は、生産物を公平に分配する手段として生まれ、発展してきた物に過ぎない。

この様に考えると、経済の本質は、生産と分配と消費である。

そして、生きていく為に必要な物は、神の恵みなのである。

だから、経済の問題は、何をどの様に生産し、どの様な基準、例えば、働きに応じるとか、必要に応じるとか、均等にとか言った基準によって分けるのかにある。

そして、どの程度を、どの様に消費するのか。
あるだけ消費してしまうのか、いくらかを蓄えに回すのかといった事が経済の根本である。

また、集団で生きていくならば、役割の分担をどうするのかが経済の根本である。
役割分担によって分配の仕方は決まっていく。役割分担とは働きである。
働きに応じて分配の仕方が決まるからである。

パラオのように、一年中、生きる為に必要な資源が手に入る状態でない地域や社会では、貯蔵や保存が重要になる。同時に、公平な分配を実現することが大切になるのである。
又、安定した収穫が保証されなければ共同体は成り立たなくなる。
そこから経済から経済は生まれ、発達してきたのである。

集団で狩りをし、集団で作物を作り、集団で保存し、集団で収穫物を守るようになれば、当然分配の問題が起こる。また、分業も始まる。
そこから政治や経済が派生したのである。

経済を構成するのは、最初に人がいて、次に生産物がある。
最後に、人々に生産物を分配する手段としてお金が生まれたのである。

人というのは、所得である。
そして、生産がある。
その上に消費と蓄えがある。
この三つの要素が均衡することによって経済は安定する。

小さな共同体が経済の基本単位であった時代は、生産と消費の場は未分化であった。
共同体が大きくなるに従って生産の場と消費の場が分離する。そして、分業が始まるのである。
また、分業を統制し、貯蔵物を管理する場として公的な場が成立する。
この事で、生産の場てある民間企業を成立させ、消費の場が家計を構成し、貯蔵の場が公的機関を生み出したのである。

この様な共同体を統合する象徴として神は生まれた。

そして、この三つの要素を動かしている主体が公的主体、民間主体、家計主体、さらに、三つの要素の他に外部との交易部分である。
これらの主体が均衡することで経済は成り立っている。

経済は、拡大均衡と縮小均衡を繰り返しながら、一定の水準に均衡しようとする性格がある。
その水準を定めるのは価格である。

経済を動かしているのは、振動と均衡である。
均衡とは、ゼロサムである。
公的主体、民間主体、家計主体、交易部分の収支の総和は、ゼロになる。
また、一定の期間内において収支はゼロになるように設定されなければならない。

貨幣が表しているのは、値であって量ではない。
値とは、意識の内部に投影された事であって、物ではない。
即ち、値は、物としての制約を受けない。
物としての制約を受けない値は、腐ったり、壊れたり、削れたりしない。
又、生産や消費に左右されない。
値はあくまでも値である。
値だから、伸びたり縮んだりできる。伸縮自在なのである。
値だから一元化できる。

そして、今の貨幣が表象するのは、交換価値である。

今日、貨幣というと表象貨幣を指して言う。表象貨幣、即ち、紙幣とそれ以前の貨幣とでは働きに違いががある事を見落としてはならない。

表象貨幣以前の貨幣は、希少価値があった。又、希少性があるが故に貨幣として機能したのである。
貨幣の希少性は、現在でもパラオでは機能している。パラオでは現金は希少なのである。故に価値がある。それは、生活に必要な物資を現金で調達していないから成り立つのである。

仮に、生きていく為に必要な物資の全てを市場から調達しなければならないという仕組みになったらパラオの貨幣の意味は一変してしまうであろう。
パラオでは、貨幣は希少な物であり、希少な物であったとしても経済は成り立っているのである。

それに対して紙幣が表象しているのは、債権と債務である。物自体の価値ではなく交換価値を表している。紙幣制度が確立される以前の貨幣は、元来希少価値を表していた。つまり、貨幣そのものに希少性があったのである。だから、貨幣は、装身具にもなったし、地位を象徴するものにもなった。しかし、紙幣には、紙幣そのものに希少価値はない。ただの印刷された紙切れに過ぎないのである。
紙幣は、市場から生活に必要な物を調達する為の道具なのである。
これは、今日の貨幣制度の本質を象徴している。

紙幣の根源は、公的債務、即ち、借金なのである。紙幣が流通すればする程、公的債務は増大し、その対極として公的債権が増加するのである。
この事を理解しておかないと経済の本質は見えてこない。

また、紙幣が表象しているのは値である。量ではない。
何兆円、何億ドルと言ってもそれは値であって量を意味しているのではない。
紙幣の供給量は制限されている。つまり、価格が表象しているのは、量ではなくて値なのである。値は、取引の量と通貨の流通量によって決まる。つまり、価格は、取引量と流通量の均衡の問題なのである。

今日の市場経済は、生きていく為に必要な資源、即ち、生活に必要な資源は市場から調達しなければならない原則の下に成り立っている。
「お金」がなければ生きていけない仕組みになたのである。つまり、「お金」が全てなのである。
「お金」がなければ、その日の暮らしにも困るのである。
故に、仕事がなくて「お金」を手に入れることのできない者に対しても何らかの形で「お金」を支給しなければならない。そうしないと仕事のない者は生きていくことができない仕組みになっているのである。

これが今日の経済の仕組みの大前提である。

もう一つ重要なのは、今日の貨幣制度を紙幣、即ち、表象貨幣を基礎としているという点である。
紙幣というのは、同量の債権と債務を前提としていて、債権と債務によって正と負の価値が生じその正と負の総和は常にゼロだという事を前提としているという事である。

その意味で、黒字が善で赤字が悪だというのは、馬鹿げている。
要は、主体間において一定期間内でいかに均衡させるかの問題なのである。
黒字や赤字が硬直的になる事が問題なのであり、赤字だから悪いというのではない。
赤字と黒字の間を揺れ動くことで経済は動いているのである。
要は周期と振幅の問題なのである。

人は、労働の対価として所得を得る。所得の根源は労働と資産である。

経済を貫く基準は所得である。
所得は、労働の評価であると同時に、分配の為の原資となるからである。
所得は「お金」で支払われることで収入となる。

労働は、生産力の源であり、収入は、分配の原資である。
故に、労働と収入を繋ぐ所得こそ経済の基礎となるのである。

所得は、一人一人の働きを基準とし、分配の原資である。
地域間、主体間の格差は、人口と生産性によって生じる。この格差をどの様に修正するかが、経済における最大の課題なのである。
この格差の基となるのが所得である。

所得格差は、世の中の不公平の原因となり、貧困の原因ともなる。
格差が悪いのではない、格差の原因が問題なのである。

例えば、個人の所得を抑えれば、企業の利益率は上がるが、企業の利益率が上がっても社会全体の収益はよくならない。個人の所得を無原則に上げれば、企業の収益や競争力は低下する。市場では、本来、個人の所得と企業収益が適合する水準に収束しようとする力が働くはずなのである。

貨幣というのは数値情報である。数値情報であるが故に、貨幣価値は数値としての働きをする。それが物や人の情報と違う点である。物や人には実物的な裏付けがあってそれが数値の働きを抑制しているのである。それに対して、貨幣は、無制約に数としての働きを発揮する傾向がある。

市場には神はいない。
見えざる神の力をあてにしていたら、市場は制御できなくなるのである。

人を物質的に豊かにし、生産物によって争うことのないようにするのが経済である。
つまり、人々を幸せにする手段が経済である。
そのための道具が「お金」である。

人を幸せにすることを目的とする経済が人を不幸にしているとしたら、それは経済本来の姿ではない事を意味している。

経済の本質はお金のあるのではなく。生きる為の手段にある。

経済的な理由で、争(あらそ)いや諍(いさか)いが起き、あるいは、憎しみや憎悪が生まれ、また、差別が生まれたり、貧富の格差ができたりしたら、それは経済のあり方が歪んでいるのである。

物が溢れているのに、貧困問題が解消されないのは、貧困の原因は、物の生産力の問題ではなく、お金の問題だという事である。

経済は、金儲けの手段を言うのではない。
しかし、今日、経済を「お金」の問題だと錯覚をしている者が多くいる。
お金や市場は、分配の為の道具、手段に過ぎない。
目的ではない。
お金を目的としたら、経済の本質は見失われる。

神を中心とした生活では、経済は、神の恵みを分かち合うことにあった。
ところが今は金が中心である。
収穫や獲物だからこそ分かち合うことができた。
金銭的利益だから分かち合うことができないのである。
神の恵みを分かち合うことを忘れて、金が全てになってしまった。

そして、お金に支配された結果、貪欲と争いが蔓延しているのである。

仕事を始める動機は、必ずしも「お金」にあるわけではない。
多くの人は、金儲け以前に、愛する人の役に立つ仕事がしたいとか、国家や社会に貢献したいとか、生き甲斐のある仕事がしたいという志を持っているものである。
また、料理や掃除、洗濯、育児のように、最初は、「お金」ではない、「お金」の為に働いているわけではない、愛する人の為に働いているのだと言っていても、「お金」になると解れば、いずれは、金儲けの手段になってしまう。
本来、奉仕の意味が強い仕事でも一度、金儲けの手段になったら、「お金」に支配されてしまうのである。

神に仕える仕事でも、商売の種になる。そして、費用が問題となる。
料理も、掃除も、育児も、年寄りの世話も外注化され、金儲けの手段となってしまうのである。
母親の味なるものが消え失せてしまう。労働の質が変わってしまうのである。

仕事の目的が本来の意義を失ってしまうと、単なる金儲けしか残らない。
なぜ、誰の為に、何の為に、問うことすら空しい。
魂を「お金」に売り渡して、ただ、「お金」の奴隷となって働くしか残されていないのである。

経済の目的は、奪い取り、独り占めすることではない。
経済は、分かち合い、助け合うことが根本なのである。
それを今の市場経済では、競争し、争うことだと教える。
馬鹿げている。それでは、社会や国を建設する意味がない。
社会や国の仕組みは、分かち合い、助け合うことを目的としたものなのである。

「お金」の世では、分かち合い、助け合うことは愚か者のする事である。
分かち合い、助け合っていたら「お金」にはならないからである。
全ての働きは損得勘定が基本となる。
市場では、損になる事をあえて行うのは、愚か者がする事である。

金の切れ目が縁の切れ目とも言いう。
人と人との絆は金では測れないと言うが、貨幣経済では、金の切れ目が縁の切れ目というのが現実なのである。

かつて、人々は、神の恵みに感謝を捧げ、日々の糧を分かち合って生きてきた。
困っている者がいたら助け合って生きてきた
今は、金の為ならば、親子、兄弟でも売りかねない。
「お金」にならないことは価値がないのである。
否、「お金」にしか価値が見いだせない世の中の仕組みにしてしまったのである。

しかし、その結果、不況や恐慌、インフレーション、デフレーションに悩まされ。
世の中は物に溢れているというのに、餓死する者が表れ、いっこうに貧困はなくならず。
治安やモラルは低下する一方なのである。

猫と小判、豚に真珠と言うが、猫は、小判の為に、自分達の仲間を殺したりはしない。豚は、真珠の為に仲間の豚と争ったりはしない。ならば、小判の本当の価値を知っているのは猫だろうか。人間だろうか。真珠の真の価値を知っているのは、人間だろうか。豚であろうか。

人々は戦争や災害に怯え、神を信じることさえ忘れてしまった。

自由主義経済は、神に対する信仰があって成り立つ。神への信仰を失われれば、金に支配され、自由主義経済は機能しなくなるのである。

競争、競争とただ争いを煽っても経済は良くならない。
競争に求められるのは、節度ある競争、公正な競争である。
人と戦車が競っても人が負けるのは、必然的結果である。
人が弱いのではない。
不公正な競争を強いられただけである。
無慈悲である。

以前、人々は、自分が生きる為、そして家族を養う為に働いて日々の糧を得ていた。
根本にあるのは、家族に対する愛情や絆である。
それが今日では金の為に働くようになった。
その結果、家庭が崩壊し、人々の絆は失われたのである。
働く目的が愛する者に対する献身ではなく、自分の欲望を満たす為に金儲けをすることに変質したからである。
金儲けの為ならば、家庭を犠牲にし、友を裏切り、先輩を出し抜き、師を利用することに何のためらいもなくなったのである。
そして、神ですら金儲けの道具に過ぎなくなった。

今の市場に神はいない。ただ貪欲が支配するだけである。
弱者に対する思いやりも、強者の自制もありはしない。
情け容赦なく弱者は貪り食らわれるのである。

しかし、それは経済ではない。
なぜならば、人々を生かす活動ではないからである。

母親の仕事は、金儲けの為ではない。
子供を健全に育むことである。
父親の仕事は金儲けが目的なのではない。
家族を養うことである。
かつては、家族が協力して仕事をした。
今は、家族は同居するだけで、思いはバラバラである。
結局、家庭は崩壊していく。
そして、人々は孤独の内に死んでいくのである。

昔は、家族の結びつきは、愛情によって支えられていた。
今は、金である。
金の切れ目は縁の切れ目なのである。
子供を愛するからこそ母親は子供の面倒を見たのである。
妻子が愛おしいから父親は、汗水垂らして働いたのである。
母や父が愛おしいからこそ子供は、学んだのである。
しかし、家族からその愛が失われようとしている。
何でもかんでも金で済まそうとしている。
現代人は、愛情も金で買えると思い込んでいる。

お金が絡むと人間関係がおかしくなる事もよくある。
お金の事でもめて大事な友達を失う事もよくある。
相続でもめて肉親が憎しみ会う事さえもある。
お金で愛情は買えない。
愛情は金には変えられないのである。

今の、家庭に神はいない。

神の本質は愛である。
かつては、人と人との関係の根本に神が存在した。
互いを許し合い、慈しみ合う心である。
金が神に取って代わったことで、人と人と関係の本質が変質したのである。

売り買い、貸し借り関係は、表裏の関係にあり均衡している。
貸し借り、売り買いは、市場全体では均衡している。
損益は、経済主体間の不均衡によって発生する。
この様な不均衡は時間差によって生じる。
赤字主体があれば、黒字主体がある。
黒字と赤字は、市場全体の総和はゼロになる。
実物市場における残高は、常に、正の値をとらなければならない。
売り買いは、取引が成立した時点で清算される。
借り越しをしている主体があれば、貸し越しをしている主体がある。
問題は、経済主体間にある不均衡が通貨を流通させる原動力となる。

経済の本質は均衡と不均衡の狭間にある。

経済の本質は神の愛である。
人を生かすことなのである。
経済の本質は争いや競争にあるわけではない。
況や、「お金」にあるわけではない。
「お金」は道具手段の一つであり、全てではない。

経済とは、人々が生きていく為の活動を言う。
人々が生きていく為に必要な日々の営みを経済という。
経済とは、人々の生活を豊かにし、幸せにする事を言うのである。

お金は魔物である。
金の力に取り憑かれると、お金の魔力に支配されてしまう。
しかし、お金は所詮道具なのである。
お金に取り憑かれるのは、自分の意識であり、人間の欲望なのである。
お金は、石油や電気、ガスといったエネルギーと同じように扱い方しだいでは絶大な力を発揮する。
要は人間次第なのである。

お金に囚われることは自分を見失う。だからこそ、お金に関することは、最初にルールを決めておく必要がある。

戦争も革命も経済の破綻がその背後に隠されている。

孫子の時代においても戦は、国家財政に重大支障をきたすとしているのである。
そして、国家財政が破綻することは、戦争の惨禍以上に悲惨な状況を人々に強いるのである。

(孫子曰く、凡そ兵を用うるの法、馳車千駟、革車千乗、帯甲十万、千里に糧を饋れば、即ち内外の費、賓客の用、膠漆の材、車甲の奉、日に千金を費す。然る後に十万の師挙がる。)

だからこそ、経済を俗っぽいこととして退けるのではなく。そのあり方を明らかにすべきなのである。
そして、それが人間の性(さが)に基づくことだからこそ神を必要とするのである。

確かに、「お金」だけで幸せにはなれない。しかし、「お金」がなくては幸せになれない。
現実は物の世界の出来事、理想は事の世界の出来事。
夢がなければ、幸せにはなれないけれど、現実を直視しなければ幸せを実現することはできない。
富や名声を目の前にすると人間は本性を現す。
往々にして自己の欲望を抑えきれなくなる。
だからこそ、お金について考える時は、常に、神を意識し、神に恥じないようにしなければならないのである。
現実は悲しい。夢は楽しい。
だから、絵に描かれた天使は、悲しい微笑みを浮かべて人間を見守っているのだ。

お金に関わる問題こそ人のモラル、倫理観が試され問題なのである。
お金はその人の人間性を露骨に表す。
苦節は伴にできるが栄辱は伴にできないという。
理想や夢を追い求めている時は、貧しくても心を一つにできるが、一度、栄光や富を手に入れると取り分で争う様になる。
人は、お金によって愛を得、又、お金によって愛を失う。
決して、お金が悪いのではない。悪いのは、人間の性である。
お金のことで悔い改めることは難しい。なぜならば、お金は、報酬でもあるからである。
神への感謝、労働への感謝、神の恵みに対する感謝、生かされている事への感謝がなければ、報酬は当然の権利でしかなくなる。
確かに、高額の報酬を得られるのは、その人の才覚によるのかもしれない。
しかし、報酬を得られるのは、神が我に与えてくれた才能、肉体、運といった諸々の要素である。人は成功すると自分だけで成功できたと思い込み、失敗すると神を呪う.。それでは、真の成功を手に入れることはできない。
真の成功とは、自分だけではなく、自分を支えてくれた、生かしてくれた者全てにその恩恵が行き渡ることによって成就するのである。
幸せは、分け与えることによってこそ永続するのである。幸せを独り占めにしようとしていると幸せは、自分の手からこぼれ落ちていくのである。



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