2001年1月6日

神について思う

罪と罰







現代人の多くは、心を病んでいる。

現代人の多くは、外に自己の解放を求める。
外に自分を求める。
しかし、真の自分は自己の外にあるわけではない。
自己の内にある。

外に自分を追い求めるものは、空しい。
その多くの人は、自分を見失い。
自分が信じられなくなるだろう。

自己というのは間接的認識対象である。
表に投影された姿を自分だと取り違えてしまうことが起こる。
表に映った象徴的な事象、地位とか、名誉とか、女とかを自分を象徴するものと錯覚するのである。
そして、それを自分だと思い込む。
外界の映し出された自分の姿を自分だと錯覚して囚われてしまうのである。
しかし、外界に映し出された存在に何ら実体はない。
本当の自分ではない。影に過ぎない。
だから肝心の自分が信じられなくなる。

今の親には、子育てに対する自覚がかけている。
というよりも、現代社会そのものが親とこの関係に対する認識が欠如している。

それが罪悪感をもたらし、罰を生じさせるのである。

人は、幼い頃に不幸な経験や愛情に恵まれないと自分が罪を犯したと受け取り、自分を罰し続ける事がある。

母親は、子供にとって神のごとき存在です。

何らかの理由で母親が不在になるとそれだけで子供は罪悪感を持つようになる。

子供は、母の期待に応えようと必死に勤める。
それが背かれた時、子供は自分に罰をかす。

両親が幼い頃に別れたり、亡くなると子は、自分の罪だと捉え、自分を罰するようになる。
父親が遊び人で、家に寄りつかなくなったとしても、それを子は自分の罪だと受け止め、自分を罰するようになる。
逆に子供が先天性の疾患を持って生まれたら、親は、自分の罪だと思う。
しかし、実際は違う。親の罪は親の罪、子の問題は、子の問題なのである。
その報いは、その人自身が受けるのです。

罪の意識から解放されることである。
ただ、難しいのは、罪悪感というのは、当人の意識の問題なのである。
周囲の人間は、当人が罪の意識で苦しんでいるとはなかなか気がつかない。
当人だけが罪の意識に囚われているのである。
しかも、当人が罪の意識に囚われるには、それなりの理由がある。
当人に全く罪はないとしてもである。
仮に、何らかの過失、例えば自己のような事が絡んでいたらなおさら厄介である。
だからこそ、贖罪行為や神の威力が必要となるのである。

自分を罰するという行為は、時として、自虐的行為を触発する。
自虐的行為の最たる事が、悪や不善をなす事である。
自らが正しいという事に背いて自分を試す。
自分に背いているのであるから、ますます自分が許せなくなる。
悪循環である。

自分の内面、実体と自分の外見、即ち、自己の思い描く自己の像とが乖離すれば、自己は分裂する。

外界の対象に自分が囚われると主体性を喪失する。
つまり、自分がないのである。
自分がない人間が人を愛したとしても、自分が愛しているという実感がえられない。
主体的に愛せないからである。
だから、愛そのものを疑るようになる。
しかしそれは、愛していないのではない、愛している自分を信じられないのだけなのである。
いくら地位を得ても、名誉を得ても、富を得ても、愛を得ても満たされない。
虚なんです。実体がない。
自分を見失った者は、幻を追い求めるのです。
この様な人達は、餓鬼である。
修羅場に生きている。

自分を失った者は、自分で自分を演じているだけである。
そんな自分は、空洞でしかない。
自分で自分を抑制できなくなる。

自制できなければ、人は、狂う。
自制心を養いたければ、本当の自分を取り戻すことである。

自分を変えられるのは、自分だけである。
自分の力で自分を変えるしかないのである。
故に、自分を変える為には、自覚が必要となり、契機となる。

これが大前提である。

何度も結婚や離婚を繰り返したりすれば、子供は置き去りにされてしまう。
親の愛を必要としている時に、親の勝手で親が不在になれば、
子供は、親がいない理由がわからずに、自分を罰するようになる。
親を責めるのではなく、自分を責めて、自分が許せなくなるのである。

そんな時に、自分を責めるな、おまえが悪いわけではないといってくれる人がいたら、どれほど救いになるか。
子は親を選べないのである。

親が不在なのは、おまえが悪いわけではない。
自分を責めずに、自分を許しなさい。
それは、神の意志でもある。
自分を許せと、それに従って、自分を許し、相手を許す。

それでも許せない相手がいたとする。 しかし、相手にとってあなたが許すか、許さないかは、問題ではない。
仮に、相手が、あなたに許して欲しいと思ったとしてもそれは相手の問題であって、あなたの問題ではない。
要するに、相手を許せないというのは、あなた自身の問題なのである。
そこで相手に反発しようが、反社会的な行動に走ろうと、それはあなたの問題なのである。
ここが肝心なんである。
要は、相手をたとえ、許さないとしても許さない自分が許せないし、許したとしても許した自分が許せない。

人を恨んでみても救いにはなりませんが、
人を愛すれば、救いになります。
だから、私は、神の本質は愛なのだと想います。

自分を許し、自分を信じ、自分を愛する。
自分を愛するというのは、自分のいいところも、厭なところも、過去の過ちも、忘れたいような記憶も全てを、あるがままに、受け入れることである。

笑いたい時に笑い。泣きたい時に泣けばいい。
無理に笑顔を作っても心から喜べなければ顔が引きつるだけだ。
涙は、悲しみだけを表すだけではない。
心を動かされた時も流れるものである。
あるがままに素の自分を出せればそれが一番いいのである。

自分で自分を許せないとしたらも悔しいけれど自分だけでは、自分の過ちを改められないということを認めざるをえない。
だから、神を受け入れるいかない。
その上で、悔しいというマイナスの感情も含めて自分で自分を許すしかない。
そうすれば相手を許すことができる。
悔しいというのは自分の感情であって神にとっていずれにしても迷惑なだけで関係のない話である。

これは、自分で自分を許せるかの問題です。
自分を許せないというのは、負、即ち、マイナスの感情である。
そうなるとマイナスの感情が大切になる。
内心の抵抗である。
だから、僕は神を信じるのである。
神は、許し尽くす神なのである。
全てを許す。私を許し、あなたを許し、そして、相手を許す。
それを受け入れられるかの問題である。

自分で自分を直接知ることはできない。
外界に映すことでしか自分を知ることはできない。
自分を外に投げ出し、外部の反応によって自分を知る
外への働きかけと内への働きは、同時に発生する。
外への働きかけは、自分の内面への自己認識に直接関わっている。
だとしたら、自分を映す外界が歪んでいれば、歪んだ自分の姿を自分だと錯覚する。
本当の自分と映し出された自分の姿が乖離すればする程、認識も歪み、意識も歪む。
だから、それを矯正する為には、内心だけでなく、環境も変えていかなければならない。
それが神の意志なのである。
世の中をよくするというのは、自分の正しい姿を映し出す鏡を作る事なのである。

自分が変わっても周囲が変わらなければ、変わらない。
周囲が変わっても自分が変わらなければ変わらない。
だから、周囲に宣言をすると同時に、周囲の形を変える。
それが儀式なのである。
故に、儀式は形式である。
しかし、その形式が重要なのである。
とくに、入りと出の儀式が重要となる。
証書はただの書類に過ぎない。
しかし、その書類に威力があるのである。
大切なのは、威力である。

儀式には、人の手を借りる必要があるのである。

名声や地位の怖さは、自分が変わることではなくて周囲が変わることで、自分が変えられてしまうことなのである。
等身大の自分を映す鏡を失う、自分を抑制できなくなると思うのである。

等身大の姿を知りたいならば、指導者なら部下、教師ならば生徒、親ならば子を見ることである。
指導する者は、指導され、教える者は教えられ、育てる者は育てられる。
その関係の中で等身大の姿は映し出される。
一方通行の関係では、自分の姿は過大になるか、過小になるかいずれかである。

母親は、最初の外部の存在である。
母親を通じて、人は、外界と接触を始める。
母親や父親とあなたの関係は、表裏の関係にある。
肯定は否定、否定は肯定である。

たとえ、親に捨てられたとしても、その親を許すことができるか。
しかし、その前に許さなければならないのは、自分である。
自分を許すという事は、相手を受け入れるという事である。

あなたは、自分を捨てた相手に許しを請えるか、許しを請えなくとも感謝できるか。
自分を生んでくれてありがとうと言えるか。
だいたい許すということ自体、許さなければならないという状態があることを意味しているのである。
日本人が解っていないのは、心理学を作ったのは、キリスト教徒やユダヤ教徒だという事である。
相手を裁いたつもりが裁かれて、しかも、許された。
もう一つ大切なのは懺悔である。それが心理学の原点である。

何しろ、人間がよってたかっていじめ殺した、なぶり殺した相手に許され、その結果、贖罪しなければならない。
だから、常に神の許しを請い続ける。

スポーツやイベントの始まる前に、彼等は、祈りを捧げ、許しを請う。
そして、必要な時に、懺悔をして許しを請う。
これは大切な行為であり、重要な意味を持つ。
なぜ、彼等は、大事に臨む前に神の許しを請うのか。

こういう、原罪意識のない日本人は、自分の行いを深く反省し、悔い改めるという事がなかなかできない。
安易な選択をして、表面的に取り繕うことでその場を収めようとする。
けれど根本的なところで許せないし、許されていない。

ハリウッド映画の多くは背景に神と人との関係が潜んでいる。
それを承知しておかなければ、ハリウッド映画の本質は理解できない。
欧米人にとってどんなところにでも、贖罪という問題が顔を出す。
とうやって神に許しを請うかが主要なテーマなのである。

許す、許さないは、神の問題ではない。
自分の問題である。
神は、すでに許しているのである。
神はいつでも許しているのである。
神は、いつでも許してくれるのである。
だから、神の許しを受け入れ、悔い改めなければならないのは自分なのである。

神の許し。
それは、自分を許し、自分を愛することである。
そうすれば、自分をこの世に出し、生かしてくれる存在全てに感謝する気持ちがでてくる。

全ての人は、神の祝福を得てこの世に生まれたのである。

迷惑を掛けるなという言葉が僕は嫌いである。
親に迷惑をかけない子はいない。

子に迷惑をかけない親もいない。
だから、迷惑をかけるなとは言わない。
只、迷惑をかけていることを自覚すべきなのである。
迷惑をかけていないと思うから、何をしても勝手じゃあないと親を恨む。
でも、迷惑をかけたと思うから、生んでくれてありがとうと自然に言えるのだと思う。
もう一つ重要なのは、プラスは、マイナスを同時に派生させているという事である。
正の部分の部分が強調されている時は、負の部分が蓄積されている場合がある。
何事もバランスをとることが大切である。
そして、人間は残念ながら、負の部分で共感し、正の部分で発散するものである。
古人曰く。苦節は共にできても栄辱は共にできない。
人の不幸話は蜜の味と・・・。
友達が言った。
おまえの成功話など聞きたくもないと。
人は、失敗や挫折に、共鳴共感するのである。
悲劇は、喜劇なのである。
だからこそ、負の部分を直視し、制御することが大切なのである。

負の世界を受け入れる為にも人は神を必要とするのである。

人の心の中にある闇。
暗闇の中をあがき苦しみのたうち回る。
救いのない闇の中で、私はかすかな光を見た。
その光を見た時、私は、闇に身を委ねることにした。
闇に身を委ねると光が私を包み込んでいった。
光に包まれて私は正気を取り戻した。

暗闇に自分を見失えば救いようのない闇の中でもがき苦しむだけさ。
ただ救いは神を信じ身を委ねる以外にないのである。

神を信じ、神を受け入れ、神に感謝し、神に祈り、懺悔して、悔い改める。



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