2013年10月23日 11:07:32

神について思う

家畜の自由






僕は、現代人の自由は、家畜の自由だと思っています。一見、周囲を護られているのですが、実際は、自分の命や生き方まで決められている。その枠組みの中でしか生きていけない。与えられた枠組みの中での自由であり、いくら大切に育てられても所詮食用の為に生かされているようなものです。
どんなに痩せても人間は、野生の自由を取り戻すべきなのです。でなければ、自分の意志で生きたことにはならない。
もう一つの問題点は、自分を見失っているという事だと思うのです。この点は後で述べたいと思います。
現代人というのは、動物園で育てられた動物、或いは、家畜みたいな部分があると思うのです。この点を理解しておかないと現代の精神疾患の根本的部分が解明できない。
今、僕は、自分達の後輩と接してい重大な疾患があることに苦慮しています。
それは、根本的な行動規範が未成熟だという事です。
動物園で生まれ育った動物は、子供を生んでも子供の育て方や扱い方が解らずに、子育てを放棄したり、虐待したり、最悪の場合、殺してしまう。また、仲間とのつきあい方が解らないで、群れには入れないでいるといいます。これは、精神的疾患以前の問題です。というよりも、この様な環境が精神疾患を引き起こしている。
家内を含めて、後輩達は、できない人間を見るとできないことを問題にして責め立てる傾向があります。しかし、僕は、なぜできないのかを極力考えるようにしています。
そうすると、常識とか、礼儀とか、作法、道徳に行き着くのです。
我々の世代、又、団塊の世代は、これを徹底的に破壊してしまった。今、それが深刻な問題を引き起こしているのです。人間と人間との関係を作る為のプラットホームを壊してしまった。
人間が社会生活に必要な基本技能は、躾や作法という形で伝承されてきました。躾は家庭で、集団行動は、先輩、後輩といった郷党組織が、仕来りや風俗は、コミュニティが分業で教えてきました。かつては、学校教育よりも家庭の躾や友人、先輩後輩の関係の方が強固だった。子供は、家事の手伝いやお使いによって家の仕事を覚え。春には田植え、秋には稲刈りを家族総出でしたものである。又、若衆になれば、集団生活をして、また、塾で酒の飲み方まで仕込まれた。職場では徒弟制度によって仕事をたたき込まれ。季節、季節の行事によって仕来りを継承したのである。
それが学校教育に集約される過程で画一的で断片的で偏ったお仕着せにとって変えられてしまったのです。それもきわめて思想的にです。
そのために、挨拶や人とのつきあい方、食事の仕方、話し方といった基本的動作の次元で偏りや欠落、分裂が生じているのです。それだけでなく、家庭や地域コミニュティと個人との間に価値観で深刻な亀裂を入れてしまった。それが、一つの人格の中に複数の価値観が混在するなどと言う異常な事態を引き起こしているのだと思います。
それがもう一つの核である自己の喪失や分裂の原因になっているように思えるのです。
たとえば、指示、命令の出し方。今は、学校から予鈴も号令も追放された為に、全くケジメがなくなった。ケジメというのは境界線ですね。行為と行為の範囲を確定する為の境界線の意識が希薄になっています。これは時間に対する意識に重大な変調を与えている。
時間は、自己意識を形成する上で重要な要素の一つだと私は考えます。それが狂いだしている。
部下が、なぜ、仕事ができないのか。場合によっては、精神疾患のレベルにまで至るのか。
それは、一つは、基本的レベルでのアルゴリズムに偏りや狂い、欠損があるからです。
もう一つは、自己の喪失です。
ここで私の自己の定義を明らかにしておきます。
自己とは、第一に、あらゆる行為の主体です。第二に、自己は認識主体です。第三に、自己は存在前提であり、認識前提です。第四に、自己は間接的認識対象です。第五に、自己は観念的、精神的存在です。
自己とは存在です。肉体は、媒体に過ぎません。自己と肉体とを混同してはなりません。
自己は、あらゆる行為の主体です。つまり、すべての行為の発動困であり、かつ、主動体、主現体です。又、あらゆる対象に対する認識主体です、そして、地上における唯一の主体です。
人間は、他人を通して自分を知るような構造になっています。自分を映し出す鏡が人間社会です。その人間社会が歪めば、必然的に自己の姿も歪んで移ります。
行動規範のレベルにおける偏りや分裂、欠落から生じる価値観の変更や分裂が自己の同一性を危険な状態にしている。
その上に、環境の激変によって、投影された自分の像が目まくるしく変わる。それが原因となる自己喪失です。
それが社会全体を破壊する程深刻な状態にまで至っている気がするのです。
ですから、表面的に表れた疾患を治すだけでは限界がある気がするのです。それはアメリカの映画やドラマを見ていると感じます。
人として基本的な倫理観のような次元まで立ち返らないかぎりどうにもならないのだと私は考えています。只、それは、従来の価値観や思想ではなく。新しい時代に即した価値観でなければならず。そのための哲学なのだと思います。
ここまでは解るのですが、問題は、その先ですね。自分一人で解決できるわけでもなく、とにかく自分のできることを精一杯やるしかないかなと覚悟しています。最後には、神に祈るしかない。
人間に残された時間は、それほど多くあるとは思えません。只可能な限り戦うしかないのです。
みすみす、滅ぼされるのを手を拱いて待っている必要はありませんからね。
僕は、ラマンチャの男が好きです。見果てぬ夢です。届かないはずのない星に手を伸ばし、勝てるはずのない戦いに挑む。人はそれを狂気というかもしれませんが、誰かが最初の一歩を踏み出さないかぎり、私の夢は、永遠の闇に幻となってきえていってしまうのです。一粒の種になりたい。それが私の夢です。

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