2012年12月11日

神について思う

寛   容




 一神教の信者が、異教徒に残虐になるのは、信仰に反している。なぜならば、信じるか、信じないかに関わらず、一神教徒にとって神は唯一の存在でなければならないからである。
 その様な神を信じる者は、異教徒に対しても寛容であるはずである。
 神が絶対的な存在ならば、人間が信じようが信じまいが神にとって何の影響も与えない。
 唯一絶対な神ならば、他との神という存在そのものが意味を持たないからだ。
 意味を持たない存在を否定したところでどうしようもない。
 要は、神を信じるか、否かでしかない。
 自分の信じる神と自分以外の者が信じる神が同じ対象であるかどうかは確かめようがないのである。
 ならば信じる意外にない。
 異教徒であるか、異教徒でないかは本質的なことではないのである。
 一神教徒にとって神は唯一な存在でしかない。
 結局、神を信じるか、信じないかの差に過ぎない。
 どの様な神を信じるのかは人の問題であって神の問題ではない。
 神は人智を超えたところに存在する。ならば、他人がどの様な神を信じているかなどと論じたところではじまらない。要は、自分以外の人間が信じる神の名の下に、自分が、迫害されることが問題なのだ。
 裏返してみれば、人は、他人が信じる存在に対して自分に害が及ばない限り寛容であるべきなのである。

 神を必要としているのは人間であって神は人間を必要としていないのである。
 神の御心に従ってと異教徒を排斥しても絶対なる神は、何も感じはしない。
 なぜならば、神は、神御自身の力で存在することが可能だからである。
 人間の力などあてにしてはいない。
 神を必要としているのは人間であって神は人間を必要とはしていない。
 神にあるのは、人間に対する慈悲だけである。
 その慈悲も人間が受け容れず、神に背けば、自滅するだけなのである。
 自らが行った行為によって自らが滅んだとしても、神を怨むのは、お門違いである。
 我々は、生かされ、又、死んでいくのである。
 だからこそ、生かされている間は、自らの意志で生きていけばいいのである。

 神の名の下に行われる残虐行為のほとんどは、神とは無縁な行為である。
 ほとんどが、人間の都合による行為である。
 それだけに罪深いことである。
 神の御名の下なら何でも許されると思うのは浅はかなことである。
 神なるが故に、許されないことも多くあるのである。



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