2001年1月6日

神について思う

神は無分別である。





 神は、無分別である。
 神は、善と悪を超越した存在。
 だから、分別を神に求めても叶わない。
 善人であろうとなかろうと関係なく、災害はくる。惨禍に見舞われる。
 善人も、悪人も死ぬ時は、死ぬ。
 神は、分別とは、無縁なところに存在する。
 分別は、人の都合。
 勧善懲悪を、神に求めても意味はない。
 悪を懲らしめるのは、人間である。
 分別は、人間の都合。
 だから、分別を神に受け入れてもらう為に、神に祈るのである。
 分別を受け入れてもらおうとするのは、人間の意志なのである。
 人は、だから祈り。神を信じる。神は、人智の及ぶところではない。

 人は、神に分別を求める。
 分別を求めながら、もう一方で平等や公正を求める。
 それなのに、人は、その矛盾に気が付いていない。
 分別は、人の世の問題である。
 人の世は、分別がなければ生きられない。
 分別は、人の世が、人の世を保つために、人が、必要だから生み出したのである。

 神に分別を求めようとするのは、人が神を利用しようとするからである。
 しかし、神は、人の思惑とは無縁なところに居られる。愚かなことである。

 神に分別を押し付けるのは、本末の転倒である。
 分別によって神を測るのは、傲慢である。
 それは、神に現世利益、見返りを求めているにすぎない。人の基準では神は測れはしない。

 神は、全てを超越した存在。
 人間の認識力や意識の及ぶものではない。
 だからこそ、人の意志が問題とされるのである。
 人の罪は、人の世の罪。
 おのれの罪は、おのれの罪。
 神故にではない。
 人の世を正すのは、人。
 神ではない。
 おのれを正すのは、おのれ。
 神ではない。
 だからこそ、人は、神の前に額ずき。
 おのが罪を問うのである。
 許しを乞うのである。


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