私は、思い切って、その方に、日常生活の中で、信仰をどのように表現すればいいでしょうかとお聞きした。
その方は、少し怪訝そうな顔をして、信仰を表現するとは、どういうことでしょうと聞き返された。
そこで私は、その方に、次のように聞いた。
本当に信仰心の篤い人は、無神論者と同じといわれました。しかし、人間は弱いものです。また、我々は、未熟です。日々、神に感謝し、信仰を自覚するためには、それを形に表さなければすみません。
それを聞くとあの方は、当惑した顔をした。そして、仕方がないというというそぶりをした後、次のように応えられた。
本当に何もしなくても良いのですよ。あなたの言うように、人間は、弱いものです。形にしてしまうと、それに、囚われてしまいます。
だから、かえって何もしない方がいい。
隣にいた、老婦人が、おそるおそる、
どうか、そこを、お願いします。お願いします。
私たちは、弱い人間です。
毎日、自分の信仰心を確認しないと自分を保つ事もできません。
と頭を床にすりつけるようにして頼んだ。
その方は、あわてて、その老婦を抱き起こすと
それでは、仕方がない。私の考えを申しましょうといった。
その上で、本来の信仰は形に表せるものではありません。
それだけは、忘れないようにと念をおしました。
それから、その方は、次のように話を始めました。
信仰の基本は、日々の行いと誓いからなります。
日々の行いには、祈りと懺悔があります。
祈りの目的とは、神の存在と信仰を確認することです。
懺悔とは、自分の行いを神に告白し、過ちがあれば、許しを乞い。その上で悔い改めることです。
誓いというのは、自分が、心に決めた事を、神に約束をする事です。神というのは、内なる神、つまり、誓いというのは、自分自身との約束と言い換えても、良いと思います。
神との契約とか、誓約という人もいます。しかし、神は、見返りも罰則も求めません。だから、契約というのとは、少し違うと思います。
見返りも罰則もないのだから適当で良いのか。それは、自分次第です。適当で良いというなら、あなたの人生も適当なものになります。つまり、誓いの質は、あなたの生き方の質です。誓いが、厳格なら、厳格な人生を、いい加減なら、いい加減な人生を、歩むことになります。その報いは、あなた自身が決めるのです。
だから、誓う内容も、大事ですが、誓う時の姿勢そのものも大事なのです。
心に決めた事を神に約束するのは、自分の行動に主体性を持たせるためです。主体性を持つことによって自分を律するのが目的です。そこに、誓いの意義があります。
それでは、最初に日々の行いについてお話ししましょう。