三人の男が立ち上がり、その方を指さしながら、あざけり笑った。そして、そのうちの一人が、このように言った。
 神など、私は、恐れはしない。私は、万能な科学者だ。私には、不可能と言う事はない。神の力に頼る必要があるだろうか。そのうちに私は、命だって作り出してみせる。何が創造主だ。それを言うなら、私こそ創造主だ。

 それに対し、その方は、言われた。

 いかに科学文明が進歩しようと、神の力と法を越えることはできない。
 人の作り出すものは、全て、神の力を借りて作り出されるものだ。科学万能の世といえど、創造主たる神の、定められた法則に従っているに過ぎない。

 信仰なき文明は、凶器だ。包丁にせよ、自動車にせよ、自制心が、あってこそ役に立つ。同じ技術でも使い方を誤れば、殺戮の道具となる。文明の利器は、理性がなければ、化け物に変じる。
 自然の法則を解き明かし、高度な技術を開発すればするほど、むしろ、人間は、強い自制心を求められる。神を怖れぬ者は、結局、自分の生み出した文明によって、滅ぼされるであろう。なぜなら、原子力の例を引くまでもなく、高度な技術によってもたらされたものは、それが及ぼす影響も計り知れない。それを制御するには、高度な操縦技術と強い精神力を求められる。そして、極度の緊張に耐え、冷静さを保つためには、信仰心が必要なのである。
 文明によっても自らの死は乗り越えられない。死を前にして、神をも恐れぬ者は、自らを律することができなくなるであろう。死は、神が、人に与えたもうた宿命だ。人に与えられた宿命は、死だけではない。哀惜離別。宿命を前に人間の理性などもろいものだ。信仰心のみが、死の恐怖を克服させ、人間に理性をもたらす事ができるのだ。

 自然の法則は、神の摂理である。自然の法則を、解き明かせば、解き明かすほど、神に対する人間の責任は増していくのである。解き明かされた法則を人類にとって、本当に役立てられるか、否かは、人間の問題である。そして、それは、人類の存在の本質に関わる問題なのである。
 だからこそ、科学文明が発達すればするほど、人は、神を必要とするのです。

 海を汚すのは、誰でしょう。それは、人間です。だいたい、海が、汚れていると感じるのは、人間です。人間にとって汚く、臭く感じるから、海は汚れているというのです。しかし、それは、人間の勝手です。
 自然を、保護するのでは、ありません。自然に、保護されているのは、人間です。人間を自然が保護できなくなって困るのは、人間です。自然ではありません。自然を必要としているのは人間なのです。


 初老の紳士然とした男が、物静かに語りかけた。
 私は、全知全能の医者だ。私に治せぬ病はない。神など怖れる必要があるだろうか。だいたい、神だ、祈祷だ、祈りだと世迷い言を言って、我々の忠告を、聞かない患者が増えて困る。神など、我々にとって迷惑千万なものに過ぎない。神は、誰も救ってはくれないのだ。実際の病を治しているのは、私たちなのだから。

 その紳士の方をゆっくりと見ると、その方は次のように答えられた。

 何が解決したというのでしょう。何も、問題は解決してはいないではないですか。
 いかに医学が進歩しようと、苦しみの根源にある生病老死が克服されたわけではない。むしろ、医学が進歩し、世の中が発達すればするほど、その逃れられぬ苦しみの本質は、より鮮やかなものになる。
 生命の神秘に、触れれば、触れるほど、神の偉大さは、明らかになる。我々は、生かされているのだ。
 誕生の喜び。病の苦しみ。老いの哀しみ。死への怖れ。医学は、人の宿命の前にいかに無力か。体の病は、治せても、心の傷は癒せない。
 人の一生を支配しているのは、病だけではない。
 そして、本当の病は、傲慢という病だ。神を恐れず、人の命をもてあそぶ、傲慢という病だ。
 生病老死という人間の宿命から、誰一人逃れられないならば、神に祈り、心の平安を得ることなしに、人は、救われることはない。信仰こそが、何よりも換えがたい薬なのである。

 迷信は、神の問題ではない。迷信を生み出すのは、迷いや恐れだ。迷いや恐れをなくし、真実に目覚めさせるのが信仰である。ゆえに、正しい信仰のみが、人を迷信から救うことができるのである。

 恰幅の良い、見るからに精力的な男が、その方をにらみながら、吼えるように話しかけた。
 私は、全能の支配者だ。この世に私に手に入らぬものはない。なぜ、神に祈らねばならないのか。一体、神は、俺に何をしてくれたというのだ。俺は、欲しい者は、自分の腕ずくで取る。これまでもそうしてきたし、これからもそうする。神に頼る者は、臆病者の弱虫だ。神など、迷信に過ぎない。
 と傲慢に言い放った。
 その方は、微笑みながら、諭すように、こう申されました。
 この世にある全てのものは、限りあるものです。この世の出来事は、夢、幻のようなものです。肉体も、やがては、衰え、老いさらばえていく。あなたが、今、手に入れたと思っているものは、かりそめなものです。あなたが得たと思う物は、全て、神からの借り物に過ぎません。いつかは、神のもとに返さなければなりません。人は、死に際し、なに一つ、持っていくことは、許されません。自分の肉体すら、この世に残していかなければならないのです。それ故に、多くを得た者は、多くのものを失う事になるのです。多くのものを所有していると思えば、つぎには、失うことを怖れ、おののくようになる。結局、絶えず、人に奪われ、失うことに、怯えて生きていかなければならない。そして、そこに諍いや争い、憎しみの種がまかれていく。
 ただでさえ、何かを所有したいという欲は、果てしない。限りある者が、限りない欲に、捕らわれれば、無限の苦しみの淵に陥ってしまう。その上、得たものを失うことを怖れだしたら、きりがなくなる。それは、自分から地獄へ堕ちていくようなものです。
 神に全てを委ね。日々、生きていくのに、必要な糧を得られた時、ひたすら神に感謝をしていればこそ、なにものも怖れることはないのです。なぜならば、所詮、帰するところ、この世の全てのものは、神のものなのですから。

 神など怖くはない。だいたい、神は、俺たちを、四六時中、見張っているわけではあるまい。一人一人のやったことなど一々記憶しているはずがない。神を誤魔化すことなど簡単さ。
 じっと声のした方を見つめながら、その方は、こう答えられた。
 他人は、ごまかせても、自分の目や心はごまかせません。あなたの目の中に神の眼があり、あなたの心の中に神の心が宿っているのです。
 あなたを裁くのは、あなたの心に宿る神なのです。

 人生の究極の目的は、自己実現による自己の救済です。そのためには、自己の律法を厳しく守らなければならないのです。また、自己の信念、内なる神に忠実でなければならない。
 つまり、自己の正義に忠実であろうとする精神が忠義であり。それは、内なる神への忠義になるのです。また、自己の信念に正直であろうという姿勢が忠誠心であり。内なる神への忠誠心なのです。
 自己に忠実であろうとすれば、自己が愛する者に対する忠義へ、忠誠心へと姿を変える。それが神の愛です。そして、それが行き着いた先に信仰があるのです。だからこそ、その愛は、普遍的絶対的な愛となるのです。

 神の本質は愛です。

 愛は、自己の内にあって絶対、普遍なものです。
 しかし、愛は、移ろいやすく、儚いものにみえる。
 それは、なぜか。
 愛は、自己を通してこの世に顕れるからです。この世に顕れる時、愛は、対象と方向を持つ。それを第三者が見た時、相対的なものにみえるのです。
 また、自己は、今しか存在しない。
 だから、時間の経過の中で愛は、移ろいやすいものに見えるのです。
 しかし、愛の実相は、絶対、普遍なもの、すなわち、神のものなのです。

 故に、自己実現による自己の救済は、愛によって成就する。その愛は、自己への愛、愛する者への愛、神への愛、すなわち、普遍的愛、献身的な愛によって成就するのです。

 神を欺くことは、自分の人生を欺く事です。それは、自分の愛する者に背を向け、神の愛をも拒絶することです。神を欺き、神の愛を拒絶する者をどうして神は、救うことができるでしょうか。それは、神が汝を拒んだのではなく、汝が、神を拒んだからである。

 最後に人は、神の前に一人で額ずかなければならない。そして、そこで面前に見るのは、あなたの神である。そこに見るのは、あなた自身の姿だ。
 恐れるべきは、あなたの良心です。あなたの人としての心です。それは、何人もごまかしたり、欺いたりはできない。
 最後には、あなたが、あなた自身を裁くことになるのです。


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